塾長のブログ

2014年10月 6日 (月)

芥川龍之介 紫の火花

芥川龍之介
― 紫の火花 ―
今回は少し、教育を離れて文学の世界に遊んでみたいと思います。
先日、私的な必要性から、芥川龍之介(以下芥川)の主だった作品を読み返してみました。
芥川といえば、「地獄変」、「籔の中」などいかにも理知的で緻密に計算された作品が浮かびますが、実は詩も書いていたことを知って驚かされました。いささか不勉強でしたが、芥川と詩、イメージとしてはどうしても私には結びつかなかったのです。
 私はすっかり当惑してしまいました。
〈この意外性、芥川龍之介とは一体何者ぞ〉
 私は非常に興味を覚えて、芥川に関する様々な評論や文献を読み漁っていきました。
 すると、ネットで萩原朔太郎の芥川へ捧げる追悼文が見つかったのです。これによって私の疑問は氷解したのですが、とても興味をそそられる内容となっておりますので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思います。
萩原朔太郎(以下朔太郎)は芥川を詩のよく分かる人間として認めていました。
「芥川君は、詩に対しても聡明な理解を持っていた。…彼はよく詩壇を論じ、詩について批評した。そして彼の見識はほとんど大抵の場合に正鵠だった。…文壇で我々の自由詩が分かる人は、室生犀星、佐藤春夫の詩人兼小説家を除いて、常に芥川龍之介一人あるのみだった。
概ねの場合に於いて、彼の詩の批評は正しかった。自分はその『批判』に敬服していた…。」
 このように述べて、朔太郎は芥川の詩の批評眼を認めていました。しかし、彼は、私が感じたと同じような違和感を芥川に対して抱いていたのです。朔太郎は言います。
 「彼の批評態度は、常に著しく客観的だった。純粋に鑑賞的であり、主観を混じない美学的観照主義のものであった。…要するに彼は聡明なる『詩の鑑賞家』である。どれが良き詩であり、どれが悪しき詩であるかについて、彼は正しく特別批判する。しかしながらそれだけである。彼自身は詩を持たない。彼自身は詩人ではない。」と。
 芥川は詩の評論家、鑑賞家ではあるけれど、詩人ではない。朔太郎はきっぱりとこう言い切るのですが、ここに、ある出来事が起こります。
ここのところはやはり朔太郎の言葉を借りた方が実感がこもります。
「ある日の朝、めずらしく早起きして床を片づけているところへ、思いがけなく芥川君が跳び込んできた。ここで『跳び込む』という語を使ったのは、真にそれが文字通りであったからだ。実際その朝、彼は疾風のように訪ねてきて、いきなり二階の梯子を駆け上がった。いつも、あれほど礼儀正しく、応接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限って取次の案内を待たず、いきなりづかづかと私の書斎に踏み込んできた。自分はいささか不審に思った。平常の紳士的な芥川君とは、全て態度が違っている。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起こったかと思った。
 『床の中で、今、君の詩を読んできたのだ』
私の顔を見るとすぐ、挨拶もしないうちに芥川君が話しかけた。それから気がついて言いわけした。
 『いや失敬、僕は寝巻きを着てるんだ』」
友人の詩を読んで感動のあまり、寝巻きのまま駆けつける。ここには芥川の意外な一面が余すところなく表現されています。芥川という人はこんなにも純粋で感激的なところがあったのかと思わず微笑んでしまいますが、あの冷徹なまでに計算された作品からは想像し難い出来事です。この後、朔太郎も悩みます。
〈芥川の本質は一体何なのか〉と。
「この日の感激に燃えた芥川君は、平常の鑑賞的な美学者ではなく、そんな批判的の態度を忘れてしまったところの、真に『詩に溺れてる詩人』であった。自分は彼の眼の中に、かつて知らない詩人的な情熱を見た。そしてある解決できない疑問が、この不思議な人物について起こってきた…。」
このように、ここにきて、「芥川は詩の批評家、鑑賞家であるが詩人ではない」という朔太郎の眼はにわかに動揺を来たします。
 そして、今までとは違った関心を持って、次々と発表される芥川の新作を読むようになります。しかし、いずれの作品も朔太郎を満足させません。彼は不満を漏らします。
 「作品に現れた芥川龍之介は、依然として冷静なる『理智の人』であり、常識的判断に富んだインテリゲンチュアにすぎなかった。彼は透明な叡智を持ってあらゆる自然の実相を見通していた。だが彼の眼鏡はいつも素通しであった。何者の影も、その観照を曇らせない。しかしながら、ただ彼はそれを『見る』だけである。そして『感じる』ことをしない」
 朔太郎は詩を次のように解していました。
「私の言語の意味に於いて、『詩』ということは、主観性を観念している。だから主観性のない文学は、私の意味での『詩』ではない上に、自分の芸術上の立場として、対照的な地位に敵視するものでなければならぬ」
 つまり、芥川は詩人でないばかりか、文学上の敵だとまで言い切っています。そして、当時「文芸春秋」に発表されていた芥川の「侏儒の言葉」について、「機智のために機智を弄する弄筆者流の悪皮肉で、憎悪的にさえ不満を感じずにいられなかった」と「憎悪的」という言葉まで使って不満を述べています。
 しかし、あの朝の芥川の行動は極めて非常識的であり、非理智的です。思い切って、詩的といってもいいでしょう。何といっても詩は常識を打ち破ってこそ詩なのですから。そして、朔太郎は悩みに悩んだ末にある決断を下します。
「芥川龍之介―彼は詩を熱情している小説家である」と。
そして次のように述べます。「実に詩人というためには、彼の作品は、あまりにも客観的、合理主義的、非情熱的、常識主義的でありすぎる」
つまり、詩人というには、その作品に、革新性、飛躍があまりにも無さすぎると。
そして、ある同人誌の会の帰途、仲間に次のように言ってしまいます。
「詩が、芥川くんの芸術にあるとは思われない。それは時に、最も気の利いた詩的の表現、詩的構想を持っている。だが、無機質である。生命としての霊魂がない」
この時は、たまたま芥川は所用で欠席していたのですが、やがて彼の耳に入ります。そして、彼に心酔する若い壮士を大勢ひき連れて朔太郎の家にやって来て言います。
「君は僕を詩人でないと言ったそうだね。どういう訳か、その理由を聞こうじゃないか」
朔太郎は恐怖を覚えます。
「『復讐だ!復讐に来やがった』、実にある一瞬間、自分はそう思って観念した。」
しかし、朔太郎もこんな事でびびるような器量ではありません。日を変えて、わざわざ芥川の家に出かけて行きます。やがて、先日の議論が再燃します。とても面白いところです。少し長くなりますが、引用します。
「『君は僕を詩人でないと言ったね。どういう訳だ。もう一度説明したまえ』
だが今日は非常に落ち着いていた。声はむしろ沈痛にさえ沈んでいた。そこで自分は諄々として前からの考えを披露した。
『要するに君は典型的の小説家だ』
自分がこの結論を下した時、彼は悲しげに首をふった。
『君は僕を理解しない。徹底的に理解しない。僕は詩人でありすぎるのだ。小説家の典型なんか少しもないよ』
それから詩と小説との本質観の相違について、我々はまたしばらく議論した。そしてついに自分は言った。
『自分が、自分の立場としての文学論を進めていくと、窮極して芥川君は敵の北極圏に立つことになる。文学上の主張に於いて、遺憾ながら我々は敵である』と。
『敵かね。僕は君の』
そう言って彼は淋し気に笑った。
『反対に』
彼はさらに続けた。
『君と僕ぐらい、世の中によく似た人間はいないと思っているのだ』
『人物の上で…あるいは…。でも作品は全く違うね』
『違うものか。同じだよ』
『いや、違う』
我々は言い争った。しかし終いに、彼は私の強情に愛想をつかした。そして怨みがましい声で言った。
『僕は君を理解している。それなのに君は、君は少しも僕を理解しない。否、理解しようとしないのだ』」
こんなに真剣でせっぱつまった会話は、小説の中でもめったに見られません。
頑として自分の主張を曲げない朔太郎、ケンメイに自分は詩人だと言い張る芥川。恐らく芥川は朔太郎を好きだった、否、愛していたのでしょう。その朔太郎がどうしても、詩人としての自分を認めようとしない。芥川の心中を思う時、こちらまで切なくなってきてしまいます。でも、両者の詩を読み比べてみると、その差は歴然としています。
 現代詩を切り拓いてきた朔太郎の詩は、革新と飛躍に満ちていますが、芥川の詩にはリリシズムは感じられても、革新や飛躍は少しも感じられません。もはや古くさくも感じます。
しかし、小説の世界に於いては、私小説の対極に位置し、ある時期日本の小説の革新者であった訳です。
 芥川龍之介は短編の名手でした。そこに詩を愛した芥川ならではの特性を感じます。しかし、詩人であるためには、あまりにも感性を抑えすぎた、前頭葉が勝ちすぎたように思います。でも、そんな芥川の作品の中でも一つだけ例外があります。それは「蜜柑」です。教科書に出てくる作品でもあり、誰でも知っている作品ですが、この作品だけは、彼の実体験からでしょうか、人工の香りが全く漂って来ません。幽愁に沈んだ作者の心持ちが少女の列車からバラ撒かれるみかんによって一瞬のうちに晴らされる。見事としか言いようのない幕切れで、真に詩的であり、どんな長編にも優る文学の力を感じさせられます。
最後に、彼の摑みそこなった詩心を象徴的に表している文章を「或阿呆の一生」より抜粋します。


  
火花
 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んでいった。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂いを感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

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2013年1月17日 (木)

囚われの小鳥

先日のことでした。

庭へ出ますとピロティの付近で何かバサバサという音がします。

天窓を仰ぎ見ますと、一羽の黄緑色の羽をした小鳥が逃れようと必死で天窓のガラスに向って空しい突撃を繰り返しています。

よく見ますとその美しい羽模様からヒワのようでしたが、ほとんどパニック状態で上昇と下降を繰り返しているのでした。

少し手荒な方法でしたが、落ち葉かきでもって下へ誘導してあげるとピッピッと喜びの声をあげて小鳥は飛び去っていきました。 

何気ないことでしたが、この小鳥の行動を見ていて、いろいろと考えさせられました。

それは「思いこみ」ということです。

私たちは日常の生活を常識の中で暮らしています。そして、常識は当然のことながら、当たり前として、疑うことをしなくなります。                  

つまり“思いこみ”の世界の中でいつも生きているといえます。

そして、ときどきその思いこみの世界に風穴を開けてくれるのが芸術であり、科学なのでしょう。                        

“思いこみ”の中で暮らすことはある程度避けられないことですが、時には、そのことを根本的に疑い深く考えてみることも必要なことのように思います。

ヒワはほんの少し頭を切りかえて下へ向かえば簡単に逃れられたのに彼の頭には上へ向かうことしかイメージできず、私の強制的手段による他しか助かる見込みはありませんでした。

もし、私がいなければ死ぬまで空しいあがきを繰り返していたことは確かでしょう。 

しかし、このことはよくよく考えてみますと、私達人間の世界でもごく普通に日常化していることのように思われます。

先日来、世間を騒がせている大阪での体罰による生徒の自殺、指導者だった顧問を責めることは容易ですが、その前に彼は私には“囚われの小鳥”のように思えて仕方ありません。

彼は今までそのような方法で一定の成果を上げてきたのであり周囲もまた彼の指導を評価し、認めてもいました。

人は今まで成功してきた方法を改めることは、非常に勇気のいることであり、現状を疑うという習慣を身につけていないとなかなかできません。

体罰の非は、子供の精神性を認めず家畜同様にみなすという非人間性にあると思いますが、恐らく彼も体罰の日常化したティームで育ち、その非を疑ってみることはほとんどなかったのでしょう。

本当に強いティームは軍隊のような環境でロボットのように育てられたティームからは決して出てこないと思うのですが・・・。

ひるがえって私達塾業界をみましても同様のことはごく普通にみられます。特に中学入試でスパルタ教育を行っている所は体罰、暴言はもとより成績による席の指定など子供の人権を無視した指導が公然と行われています。確かに一部にはそうした指導の中から伸びてくる子もいるでしょうが、感受性の鋭敏な子は決定的な外傷を心に受けそしてトラウマとなってその後長くその子を苦しめることになります。

不登校になった子、本で顔をおおって決して教師の顔を見ようとしない子。私の所にもときどきそういう子が体験に見えますが、彼らは全身でもって学ぶことを拒否しています。

また、そういう環境の中でたとえテストの成績が一時的に伸びましても、果たして本当の学ぶ楽しさが味わえたのか疑問です。

競争ばかりが前面に出すぎますと、学ぶ目的は競争に勝つことであり、本来あるべき、学ぶことの楽しさからは乖離していくばかりです。

そして、興味を伴わないそういう姿勢からは、学びも浅くなってしまいます。

“学ぶことは苦しいが耐えなくてはいけない”こういう“思いこみ”からスパルタに走ることになるのでしょうが、残念ながらそういう指導を望む親が多いのも事実です。

コペルニクス的転回とまでいかなくとも、日常の指導の中で“これでいいのか”と常に疑ってかかることは将来ある子供を預かる者として義務のように私には思えるのですが・・・。

そういう意味で“小さな詩人”でありたいといつも密かに思っています。

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2012年12月 5日 (水)

自習ができるようになろう

学習に関しては、いろんな角度・視点からさまざまに考えることができます。今日は、こうした中から「自習」を取り上げてみようと思います。

自習とは、字の通り、自ら学ぶことですが、簡単なようでなかなかできないのが、この自習です。

ちなみに小学校でも中学校でもいいですが、ある日突然「先生が急用で来られなくなったので今日は自習して下さい」といって生徒に自習させたとします。果たして何割くらいの生徒がきちんと自習できるのでしょう。もし、7~8割ぐらいの生徒がそれなりに自習できたとしたら、そのクラスはきわめて学習意欲に富んだ向上心溢れるクラスといえるでしょう。たいていは雑談が始まり、勝手に席を立ったりして、とても自習できる雰囲気ではなくなってしまいます。

しかし、真の学力を身につけるという点で、自習はもっとも重要な役割を果たしています。

先生や友人から直接習うことも、もちろん大切ですが、自分だけの力でああでもないこうでもないと試行錯誤しながら考えてみる、そういうことができないと、頭も練ることができませんし、知識も深まっていきません。

だから子供の学力を見る時、きちんと自習できているかどうかを見ますと、ほぼ正確にその子の現在の学力を把握することができます。

だから私はいかに、自習できる子を育てるかということをとても大切に考えています。それでは、きちんと自習できるためにはどういう条件が整っていなくてはいけないのでしょう。

思いつくまま記してみますと次のようなことがあげられます。

 
1、基礎学力ができている。 
2、自立心が確立できている。 
3、精神的に落ちついている。 
4、国語力がある。

こう並べますと、これらの条件を全て具備している子は当然学力優秀に決まっているということになります。

でも、1つでも備わっていますと、クラスの雰囲気次第では十分自習できるようになります。だから、私達はクラスの雰囲気をとても重要視しています。

 この点で、吾川教室はすばらしいクラスです。3年の夏休みからなのに統一模試の11月の結果で、桜美の1位2位は吾川教室から出ているのもうなずけます。これは、ひとえに地域の力といえるでしょう。

また、子供たちも、成長とともに落ちついて自習できるようになるということは、よくあることです。特に成長の遅い男の子に多く見られます。佐川の中2の男子たちもずい分落ちついてきました。彼らは川でいえば未だ流れの速い上流を生きています。その成長も音を立てて聞こえるようです。

 
落ちついて自習ができだしますと、必ず成績は向上します。そして、それがやればできるという自信につながり、向上心を育ててくれます。

私たちがすべきことは、その環境整備、子供たちが自らの力で伸びていくのをそっと支えることです。  

 

 

  

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2012年10月 5日 (金)

何のために学ぶの?

 ドリーム教室では、通常の授業の他に学校では取り扱わないようなさまざまなおもしろい問題に挑戦しています。今日はその中から一つ、図形の問題について書いてみます。

 これは面積や線分の長さを求める問題ですが、下の図のように、問題というよりはパズル的要素を多く含んでいて、どの子も嬉々として取り組んでいます。子供達も遊び感覚でやっていて勉強とは思っていないようです。そこがみそでして単純に楽しいからやるところがすばらしいのです。この問題の特長は論理的に推理していく側面と、それだけではどうしても解けない時に考え方をガラリと変える、いわゆる水平思考をしなくてはいけない側面の二つの要素をもっているところにあります。従って柔軟な考え方ができないと解けない問題がたくさんあります。かなりな難問もあり、私ではどうしても解けないものもあります。また、私よりずっとシンプルに美しく解く子もいて思わず、「すごいね」と言ってしまいます。こういう子どもたちを見ていますと、〈人間は考えることが好きなんだ、頭を使うことは楽しいことなんだ〉とつくづく思わされます。

 ここら辺りのことは、私がかねがね尊敬しているアメリカの学者エドワード・L・デシ先生の著書である「人を伸ばす力」に詳しく書かれています。この本は学ぶ意欲を育てるにはどうすればよいかということを研究した本ですが、その中の実験の一コマについて記してみます。

 内発的動機づけを妨げるものはいろいろありますが、その中で報酬との関係についての実験です。実験の内容は次の通りです。

 被験者は大学生で、二つのグループに分けられます。そしてどのグループもソマパズルというさまざまな立体図形を作る問題に取り組んでもらいます。ちなみにこのソマパズルは「世界一のキューブ・パズル・ゲーム」と銘打たれておりいったん始めるとやめられなくなってしまう程おもしろいものです。そして2つのグループのうち一つのグループはパズルを解くと外的な報酬(お金など)をもらえ、他の一つのグループは何ももらえないことにします。

 そして何を調べるかというと、どれだけ解けたかということではなく、休憩時間に彼らがどのような過ごし方をするかということです。

 被験者の近くのテーブルの上には学生たちの興味を引きそうな数冊の雑誌が置かれており、被験者は何をしても自由と言われていました。果たして結果はどうだったでしょう。報酬を約束された学生たちはそうでない学生たちに比べ、休憩時間にソマパズルに取り組む人は圧倒的に少なかったのです。つまり、これは何を意味するのでしょう。デシ先生は次のように述べられています。「彼らは最初、報酬なしでも喜んでパズルに取り組んでいたのに、いったん報酬が支払われると、あたかも彼らはお金のためにパズルをやっているかのようにみえた。金銭という報酬が導入されたとたんに学生たちは報酬に依存するようになったのである。これまではパズルを解くこと自体が楽しいと感じていたにもかかわらず、パズルを解くことは報酬を得るための手段にすぎないと考えるように変わってしまったのである。報酬が内発的動機づけを低下させるというこの結果は、常識を揺さぶる、しかも科学的な見地からは大変刺激的なことであった」

 報酬を与えることは、報酬そのものが目的になってしまい、本来の内発的動機を著しく損なうというこの結果は極めて深い内容を示唆しています。それは「私たちはなぜ学ぶのか」という根源的な問いかけを想起させるからです。

 ずい分と話がそれてしまいましたが、実はドリーム教室でもこの実験を思い起こさせるようなことが起こりました。それは、休み時間を知らせるチャイムが鳴ったので、私が「さあ休み時間だよ」と大声で言っても、子どもたちは「おもしろいきこれをやる」と言って問題から離れようとしなかったのです。ふだんは卓球やドミノ倒しに飛びつくのにです。つまり、この問題を解くことは子どもたちにとって卓球やドミノ倒しよりもずっと魅力的だったのです。この事から言える事は、普段の勉強というものが、学ぶことをいかに味気なく意欲をそいだものにしているかということです。「学ぶことはやらされること」という思いが深く子どもの心に根づいてしまっているように思います。理想はいつもつまずきます。しかしそれでもそうではない「学ぶことはたのしいことなんだ」と子どもたちが感じられる授業を目指してこれからも創意工夫を続けていきたいと思います。   

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2012年9月 8日 (土)

丸暗記はやめよう ―知識はいとも簡単にはげ落ちる―

 
 この頃、教えていてつくづく思うことがあります。

それは“学ぶことは暗記すること”と思っているのではないかということです。

目前にせまったテストを何とかクリアするために、その場しのぎに答えを丸暗記する。

そういう風に見えて仕方ありません。

なぜ、そう思うかといいますと、教えたことがあまりにも簡単に抜け落ちてしまうからです。

 そこで、私は、本で少しそういうことを勉強してみました。

次にそのことについて記してみます。

 この本の中で次のような調査が行われています。

[5/12(12分の5)+2 11/16(2と16分の11)=     ]

という分数の計算を中学1年生、中学2年生、中学3年生に解かせてみたところ、正答率の変化は次のようになったというのです。

[中学1年生43、5%、中学2年生30、3%、中学3年生22、7%]

何と学年が進むにつれて正答率が一路下降してしまったのです。

これは一体何を意味するのでしょう。

この本の著者は、これはまさに学力の剥落(はげ落ちること)に他ならないと言っています。

 そして、この剥落現象をどのように説明するかということで、少し専門的になりますが、エビングハウスという人の記憶法則を持ち出しています。

それは、「暗記してからの時間が経つほどたくさん忘れていく」というものです。

「なぁーんだ、当たりまえのことじゃないか」皆さんそう思うでしょう。

つまり、学年進行とともに、正答率が低下していくのは少しも不思議なことではないと。

ところがエビングハウスが研究の材料としたのは、無意味綴りといって、どんな辞書にものっていない意味のない綴り(例えばqig)をたくさん作り出し、これを種々の条件下で暗記させたり、再生させて、この法則を見つけ出したのです。

だから、この法則がストレートに適用できるのは意味のない丸暗記に限られるということになります。

 しかし、 5/12(12ブンノ5)とか2 11/16(2ト16ブンノ11) とか+という記号は無意味ではなく有意義であるべき内容です。

ここから導き出されることは、被験者は、この分数の計算方法を丸暗記していたということです。

そして時間の経過とともに丸暗記の記憶法則にのっとって順調に忘れていたということでしょう。

分数そのものの意味、分母の異なる分数の加法の根源的な意味などは置いてけぼりにされたのです。

著者は次のように述べています。

「客観的には有意義な材料を子どもたちは無意味な記号として学んでいたということで説明される以外、説明しようがない」と。

そして次のように結んでいます。

「つまり、学力の剥落は理解のドロップアウトからの派生結果なのである。」

「理解のドロップアウト」、わかり易くいえば理解せずに答えだけを丸暗記することです。

何とせつない行為でしょう。

最高の知能を具して生まれた人間がそのような愚かな行為をせざるをえなくなるしくみ、制度。

 私は悲しくなってしまいます。いっそのことテストは全て廃止しようかと思ったりします。

いろんな原因が考えられますが、やはり、本来学力診断の道具にすぎないテストが完全に目的化している逆転現象だといえます。

学ぶことはテストでいい点を取ることでも、学年トップをとることでもありません。

自分の頭で客観的に考える力を養い、正しく判断できる力をつけることです。

テストで高得点とることだけが目的になってしまいますと、学びそのものも浅くなり、結局はテスト的学力もたいしたものではなくなるでしょう。

丸暗記はむなしいものです。

しっかり考え、理解し、それから必要なものは記憶に定着させるようにしましょう。

そして、このようにして定着された記憶は決して剥落することはなく、皆さんを一生支える豊かな財産となっていくことでしょう。  

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2012年3月10日 (土)

H君の教えてくれたこと

   

 中学2年生のH君、この頃、教室での様子が別人のように変わってきました。
以前は得意科目の理科以外は授業が始まるとすぐにうとうとし始め、そのまま
にしておけば、本格的な居眠り状態に入るのが常のことでした。やらなければ
いけないという気持ちはあるようなのですが、授業開始とともに、頭と体に眠
りのスイッチが入ってしまい、いかんともしょうがないという塩梅でした。こ
んな状態では学ぶ以前の問題で、とても学力うんぬんといえる筈もありません。
ところが、こんなH君がこのところ、俄然頑張りだしたのです。背筋をしゃん
と伸ばし、以前のように机にダラリと伏せるようなことは決してありません。
それどころか、学び方も以前とは比べようもないくらい積極的になってきまし
た。きらいな科目でもくいついてきますし、理解しようと努めている様がよく
伝わってきます。何よりも授業に集中している様子がすばらしい。そして理解
できない時は、私のところまで質問にくるまでになったのです。一体、何が彼
をここまで変身させたのでしょう。
 理由はいろいろ考えられますが、そんなことよりもっとも大切なことは、人間
は変わることのできる存在だということを身をもって教えてくれたことです。
 私達は、ともすれば現在の子どもの状態だけで、その子どもの将来まで推し量
るという過ちを犯しがちです。しかし、そんな固定的な見方では子どもはうか
ばれません。今回のH君のように予想を見事に裏切ってくれるということは、
身も心も成長著しい中学生では、当然起こり得ることですし、またこれ程うれ
しいことはありません。
 やはり、育てるということは、親も教師も長い目で、その時節が到来するの
をじっと辛抱強く待つ、このことが何よりも肝要かと思います。「人間は成長
する」、こう思って眼前の嵐に耐えること。これもまた易しいことではありま
せんが、短期をおこしたり、いたずらに焦ったりしますと、大切な将来の芽を
摘みとってしまうことにもなりかねません。H君は改めて、このことを私に教
えてくれました。大感謝です。
 
最後に、ドリーム国語教室用に購入したミヒャエル・エンデ作「モモ」より

私がすばらしいと感じたところを抜粋いたします。 

― 道路掃除夫のベッポの言葉 ―

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても
長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとても
やりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづ
けます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目
をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だ
からもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてし
まいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのに
な。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩の
ことだけ、つぎのひと呼吸(いき)

(

)

のことだけ、つぎのひと

(

)

きのことだけを考える
んだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事
がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっ
とる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」

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2011年10月28日 (金)

ドリーム教室でのできごと

 最近、ドリーム教室でちょっとしたうれしい変化がありましたので書いてみます。それは、社会の授業のことでした。ドリーム教室では、週に1度、理科と社会の時間を1時間ずつ設けています。理科は実験、観察を中心に、社会は週1時間ですので私のまとめたプリントをテキストを読みながら、穴埋めや記述をしていくというものです。そして、翌週に確認テストを行っています。

 もちろんこのテストは、他と競わすためのものではなく、順位などはいっさい発表しないようにしています。だから、初めの内は、ほとんどの者は半分ぐらいしかとれず、私もどうしようかと迷いましたが、それでも追試は行いませんでした。

 それは、追試のためのにわか勉強になってしまうことと、罰による強制からはプラスになることはほとんど得られないと思ったからです。つまり、「学ぶことは辛いこと、しんどいこと」ということがすりこまれることを恐れたからです。

 いろいろ考えている内に、中3の補講が忙しくなり、社会は妻と交代しました。

 すると、どうでしょう。たちまち、全員が100点もしくは、それに近い点数をとるようになってしまったのです。このことには何か大切なヒントが隠されているように思い、妻や子供達にいろいろと尋ねてみました。妻がいうには、今やっている社会の意義をきちんと生徒に伝えたこと、テスト前の勉強をいっさい禁止したこと(私の場合は、1~2分は許していた)だけだそうです。生徒の話によるとやはり、テスト前の勉強の時間がなくなったことを言っていましたが、私の時も、よく勉強していた子が「みんな成長したがよ」と言ってくれたことは正直嬉しく思いました。

 そこで、これらの話を総合して、私なりに次のように考えました。

 恐らく、私よりは妻の方が子供達にとって、親しみが強く感じられるのではないでしょうか。やはり、母性の力は偉大です。だから、この強い絆をベースにして妻が心を込めて言ったことが、子供達のハートをとらえたのだと思います。

 やはり、教師にとって一番大切なことは専門的な知識も、もちろんですが、子供達との信頼関係だと思います。それも、親近感というようなものが、特に小学生では大切ではないでしょうか。父性では、小学生の場合、母性にたちうちできないように思います。小学生を受けもっている男の先生は、大いにユーモアのセンスを磨く必要があるかもしれません。

 このテストでは、子供達は、個人の点数よりは、みんなの合計点数を自然に目標にして行ったようです。そして、数日前から互いに質問をして答えあうという光景が見られるようになりました。

 やはり、私は競争よりは協同によって子供達の意欲は高まるように思います。

互いに教えあったり、尋ねたりすることが気軽にできる雰囲気の中でこそ、子供達はのびのびと自分の力を伸ばしていけるのでしょう。そして、そういう雰囲気のクラスをつくることが私に課せられたもっとも大きな仕事だと思っています。

 「学ぶことは、決して辛いこと、しんどいことではない。人間の中には、本来好奇心があり自分自身の成長と発達をめざす積極性が備わっている」

 私の考えていることは全て、この点から出発しています。これをくずしてしまえば教育は成り立ちません。そして、それを達成していく道は、競争よりは協同の中に、互いに助けあい、励ましあって共に伸びるという社会性の中でこそ見出されるように思います。

 なお、社会の授業内容につきましては、はなはだ理想とは遠くまだまだ研究が足りません。ただ、私の今の関心は、どのようにすれば、子供一人一人の意欲を育てられるのか、しばらくはここに集中していきたいと思っています。

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2008年9月 4日 (木)

勉強と学び

 静かにではありますが、徐々に学びのスタイルの変革を行っています。それは「勉強から学びへ」ともいえますし、「孤学から助け合いの学びへ」ともいえるかもしれません。「勉強」には、どこまでも強制的でおもしろくなく、いやいややらされるというイメージがつきまといますが、「学び」には、もっと明るく、どこか自発的なイメージを抱きます。

 それは、人間にとって「学ぶこと」は、食べることや、眠ることと同じ、本能だと思われるからです。私には、3歳の孫娘がいますが、実に好奇心旺盛でさまざまなものに挑戦し、ものにしていきます。つくづく本能だなあと実感させられる次第です。成長とともに好奇心の対象は変化していくでしょうが、「学ぶこと」は、決してつらくてしんどいことばかりでなく大きな喜びや満足を得られるものと確信しています。ただ、それをさまたげているものとして、次のようなことが考えられます。

① 点数による序列化により、競争を「学び」の中に持ち込みすぎる。                       ② 一人でもくもくとやることを強制される。                            ③ 基礎学力不足で内容が十分に理解できない。

 まず①ですが、「学ぶこと」は本来競争とは無縁のものです。逆に競争とは対極の世界といえるでしょう。純粋に真理を追究することであり、そのことにより、知る喜びを分かち合う世界です。知識の獲得を序列化し、競わせることは「勉強」に於いてのみ、なされることです。それは、勉強には、競争に勝つ喜びを導入しない限り、モチベーションが上がらないからです。しかし、敗れた者はしめ出されてしまいます。

 次に②ですが、「一人でもくもくとやる」、これも、強制すべきものではありません。人間は社会的動物ですので、わからないことは、お互い助け合うのがいいと思います。一人でやっていますと、どうしても壁にぶち当たりますし、それをのり越えるのには限界があります。友達(場合によっては教師)の援助により、楽しく解決していくのがいいように思います。ただ、教師は、甘えや依頼心の助長につながらないよう、注意していなくてはいけないのは、いうまでもありません。このように学びの社会性を育てていくことが、学ぶことは楽しいことだと思える重要な要素だと思います。その根底には、競争ではなく、助け合いの心が流れているからです。ただ、友達や教師の援助で理解できたことをもう一度、しっかり自宅で復習するという「内化」の作業は、どうしても必要です。

 最後に③ですが、ほとんどの場合、このケースはそんなに多くはありません。援助してもらえば、だいたい理解できるものです。ただ、将来の飛躍のためには、土台はしっかりしていることにしくはありません。そのために復習の時間も設定しています。

これから、いい季節がめぐってきます。                              大いに楽しく学んでいきましょう。

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2008年7月17日 (木)

自学自習から学びあいへ

以前私は、自立心を育て自学自習できる子供を育てることが教育の目標だと思っていました。「黙々とやれ」、これが私の口ぐせでした。

しかし今その思いが大きく揺らいでいます。仲間と心を通い合わせ助け合い、お互いから様々な刺激を受け合いながらこそ、子供は成長するのだと思うようになりました。

受験学力のようなレベルの学力でもそれはいえるように思います。集団の力で伸びる、これは以前から実感していましたが、いよいよそれを確信するようになりました。

受験学力のレベルだとあらかじめ決まっている答えを探るだけですので、それこそ一人で黙々とやった方が能率が上がることもあろうかと思いますが、最近の子供たちを見ていますと、どうもそうでもないようです。

もちろん、その方が向いている子もいまして、それはそれでいいと思いますが、今まで250点ぐらいしか取れなかった子が400点近い点を取ったりするのを見ていますと、どうしても集団の力が作用しているとしか思えません。

ましてや、勉強以外の人間的な成長となれば集団の中で啓発されることがどうしても必要ですね。人間は社会的動物ですので、自立そのものも集団の中でこそ発達するようにも思います。

そうなりますと、私達の一番大切な仕事はいかにして、思いやりがあり、お互いの存在を人間として認め合い啓発しあえる集団となるように心を砕いていくかということになります。

そしてそれを、よい授業を行っていく中で生徒と共同で創造していくしかないように思います。そういう意味で、最近はやりの個別授業や習熟度別クラス編成は、勉強だけに特化したいびつな手段で、決して子供のためになるとは思えません。また学力そのものも逆に伸びないように思いますがいかがでしょう。

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2008年5月29日 (木)

美しい季節を過ぎて

4月から5月にかけては、桜、つつじ、バラと私の大好きな花々の季節です。

特につつじは、固体変化が多く、その微妙な花色の多様性に近年は、すっかりとりつかれています。

ミツバツツジ、オンツツジ、ゲンカイツツジ、アケボノツツジなど私の好きなつつじは全て、野生のつつじ達です。

彼らには、園芸種には、決して見られない野生ならではの野趣があります。

そして、山中でさまざまな花色に咲き誇っている彼らに出会う時、その多様なるゆえの美しさにうたれます。一様でない多様さということは、何か生物の本来の有り様ではないかと、この頃思うようになりました。

人間も生物の一種にすぎません。

さまざまな人々の中で暮らしてこそ、豊かな人生がおくれるのではないでしょうか。

子供達もまた同じです。さまざまな子供達の中で育ってこそ心豊かな子供が育ちます。そういう意味でも、今、全国に広まりを見せている習熟度別クラスには疑問を感ぜずにいられません。

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