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2018年2月

2018年2月 8日 (木)

理学と工学  -桜美通信12月号よりー

NHKのBSに「フランケンシュタインの誘惑」という番組があります。

科学史に埋もれた知られざる内容にスポットを当て、科学者の、そして、科学のすばらしさ、危うさを追求した興味深い番組です。

その中でたびたび対比して出てくるのが「理学」と「工学」という言葉です。

私のようなまったくの門外漢は単純に理学は真理を探求する理論であり、工学はそれをいかに人間の生活に役立てるものにするかという応用科学だという風にざっくり理解しています。

専門家から見れば、本当はそんなに単純ではないようですが、まあ、当たらずとも遠からずというところでしょうか。

理学での発見をもとにしてさまざまな実験、研究を通して人類に役立つように応用してきたのが工学です。

どちらも大切です。

両者が調和の内に発展してこそ真の科学の発展といえるでしょう。

理学者のエネルギー源はひと言では言えないかもしれませんが、最も大きな要素はやはり知りたいという好奇心だと思われます。

人間に役立つかどうかは二次的なものでしょう。

たとえば、今年のノーベル物理学賞は重力波を世界で初めて捉えることに成功したアメリカの研究者三人に与えられました。

重力波を捉えたからといって、私たちの生活には何の関係もありません。

だからといって、この業績はまったく価値の無いものでしょうか。

重力波の初観測に秘められた可能性は、人類がこれまで見ようとしても見られなかった宇宙の本当の姿を明らかにし、宇宙誕生の謎にも迫れる大きな武器を手に入れたことにあります。

このような大発見を、人類の生活に直接役立つかどうかでその価値を判断することはとてもできません。

「知りたいという欲求」は人間の本能といってもよく、その欲求を追求することで科学は発展してきたからです。

一方、工学の目的は人間に役立つものをつくることにあります。

私たちの身の回りにあるさまざまな便利なものの多くは工学の恩恵にあずかっています。

しかし、工学は時に怪物も生み出します。

原子爆弾、毒ガスなどの様々な兵器がそうでしょう。

だからこそ「フランケンシュタインの誘惑」なのです。

「科学には善も悪もない」とよく言われます。

最終的にはそれを使用する人間の責任に帰すると…。

ただ、人間の歴史を振り返るとき、高度な科学技術の進歩は常に危うさを内包しています。

人間はどこまでいっても神ではないからです。

翻って教育を考えてみましょう。

教育にもやはり、「理学と工学」の側面があると思います。

心理学や教育理論は「理学」にあたるでしょう。

一方、ある目的のために実践される教育は工学と考えられます。

このように考えますと、学校は「理学」の側面が、塾は「工学」の側面が強いように思います。

特に塾は合格という目的のために通って来てくれている訳ですから。

ただ、私が心配しますのは、塾があまりにも「工学」的になりますと、さまざまな弊害が生じてくるということです。

それは、合格という目標遂行のために「理学」的側面がおろそかにされ勝ちになるからです。

競争が激しいことがそれに拍車をかけます。

結果として、原理からだんだん乖離していき、演習中心、暗記中心の短絡的学習に陥っていきます。

理論はどうでもいい、解ければいいんだと…。

こうなることだけは絶対避けなければいけません。

それは考えることを奪うことに繋がりますから。

塾は教える時間が限られています。

その中で、結果を出さなくてはいけません。

さらに、原理をよく理解させ、興味を起こさせ、考える力をつけるとなると…。

考えるだけで頭が痛くなってきます。

しかし、昭和は遠く、平成も終わろうとしています。

今、世の中は大きな変化の始まりを迎えています。

塾だけが昭和のままでいい筈はありません。

限られた時間の中で、理学的側面を大切にした授業を行うにはどうしたらよいか。

コペルニクス的転回といきたいところなんですが…。    

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