わからないこと ー桜美通信9月号よりー
皆さんは、わからないということをどのように考えていますか。
私はこの世のことは99.999…%わかりません。
〈私はなぜ人間であって、ミドリムシやカメムシではないのか〉
〈宇宙の果てはどうなっているのか〉
〈花や音楽はどうしてあのように美しいのか〉
〈なぜいじめがなくならないのか〉
大切なことはほとんど私にはわかりません。
逆にいいますと、私がわかっていることなんて世界のほんのごく一部分にすぎません。
では、わからないということは価値がないことでしょうか。
私はそうは思いません。
なぜなら、この世界は私の浅薄な知能で理解できる程、単純で浅いものではないはずだから。
ここで一つ現代詩を紹介します。
みぞれ 安藤次男
地上にとどくまえに
予感の
折り返し点があって
そこから
ふらんした死んだ時間たちが
はじまる
風がそこにあまがわを張ると
太陽はこの擬卵をあたためる
空のなかへ逃げてゆく水と
その水からこぼれおちる魚たち
はぼくの神経痛だ
通行どめの柵をやぶった魚たちは
収拾のつかない白骨となって
世界に散らばる
そのときひとは
漁
泊
滑
泪にちかい字を無数におもいだすが
けっして泪にはならない
詩集 「からんどりえ」より
この詩を読んで、すばらしいと感動できた人は、特異な感性を備えた人です。
いわゆる通常の意味で「わかる」詩ではありません。
ある詩人の言葉を借りれば、「わかりやすい」ということはつまり、その人が今まで経験してすでに知っている頭や心の中の番地に整理しやすいということです。
この詩はそういう文脈の外側にある詩であって、どこまでいっても謎のままです。
だから、私もわかりません。
でも、この詩はわからないけれど、とても刺激的で美しいと感じます。シュールな感覚とでもいえるでしょうか。
前述の詩人はこの詩を中学生の時、夢中になってノートに書き写したそうです。
まったく意味はわからなかったけれど、いやわからなかったからこそ、この詩を一つの図像として味わった。
そうすると、この詩は限りなくかっこよく魅力的だったと述べています。
私は、こういう詩人の言葉に触れますと、ときめきを覚えます。
「感動する」ということは、神秘や謎や美に触れることであって通常の意味での「わかる」ことではありません。
『わたしにはただ、強くあざやかな「わからなさ」の感触だけがあった。
そしてそれは、ふるえるほど魅力的だった。詩とはそのようなものだ。詩とは謎の種のことなのだ…』
このように述べた後、詩人は簡単に「わかった」といってこれを処理することの安っぽさと、「わからない」状態に永く身を置いていることの大切さを強調して、「わからないことは高貴な可能性なのだ」、と語ります。
さらに「全ての人には、まだわからないでいられる権利がある」
とも述べています。
多忙な現代人は、全てを迅速に「処理する」ことに追われています。
でも、ほんとうに大切なことに対しては、手軽に「処理する」ことをせず深く思考し、洞察することこそ求められるのではないでしょうか。
教育もまた、同じ文脈の上に位置していることを改めて強く意識していかねばと自戒するところです。
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