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2015年10月

2015年10月13日 (火)

☆「知ることについて」 ―串田孫一の文章からー 桜美通信10月号より


              

私が学生の頃、新聞に掲載された随筆で静かな感銘を受けた文筆家・哲学者に串田孫一がいます。それは、「はたちのころ」というタイトルで、氏の若かりし頃の不透明な気分を描写したものでしたが、私自身ちょうど二十歳の頃であり、またいろいろと思い悩むことも多く心に素直にしみ込んでいきました。

その記事は切り抜いて今でも大切に保管していますが、時々思い出したように開いてみますと、うす黄色に変色した新聞紙からたちまち当時の気分が蘇ってきます。進路を誤ったことに思い悩み、授業にも出ず一人小樽の運河をほっつき歩いていたあの頃が…。

 今回は、そんな思い出多き串田氏の著書の中から、「知ることについて」という文章をとりあげたいと思います。この文章の中で氏は「知ること」と「知らされること」の違いについて次のように述べています。

「知るということの中には、知りたいという意欲がはっきりしている場合を考えています。これだけのことを知っていないと笑われるとか、現代人としての常識に欠けているといわれそうな、ただそのために知るのであれば、外部からの強制的な力によって知ることを努力しているに過ぎません。

そういう人は自分はどうでもよいのです。笑われる、馬鹿にされるという理由だけで動いているのです。

それでも全くの無関心な状態に比べればいいでしょうけれど、しかしそうして知識を得る時には喜びはなくてむしろ苦しみがあるばかりだと思います。

それよりももっと恐ろしいことは、知っている振りをするために、なるべく苦労の少ない手段を選んで、知った振りをするのに必要な知識だけを手許、口先へ用意しておこうという態度です。」

私はこの文章を何度も何度も繰り返して読みました。

ここには教育に携わっている者なら必ず思いあたる耳の痛い内容が述べられています。

 人間として生まれた以上当然備わっている「知りたいという意欲」、また、それを充足したときの「知り得たことの素朴な喜び」、「知ること」とは本来そういうものだった筈です。

 しかし、現実には「外部からの強制的な力によって知ることを努力している」ことがどんなにか多いことでしょう。

そして、「知識を得るときには喜びはなくてむしろ苦しみがあるばかり」という帰結を日々目の当たりにしています。まさに「知らされる」という受け身の教育が蔓延しています。

 氏はさらに続けます。

「虚栄のための知識、あるいは自分の身を飾るための知識は、いざとなったら何の役にも立たないということをここで思い切って申し上げまして、本当に知りたいと思うことを改めて考えていただきたいのであります。・・・

もし真剣にそれを知ろうとして獲得することのできたものなら、それはたとえ本から得たものでありましょうとも、あるいは幼い子供から教えられたものでありましょうとも、必ず自分のものになって、それが素朴な要求であればこそ喜びを伴い、またそれが今すぐに役に立たないものであるにしても、いつかは必ず、形を変えて自分の成長に役立ったというはっきりした証拠を見せてくれるにちがいありません。」

 翻って、自分の行なってきたことを謙虚に思い返してみた時、果たしてどうだったでしょう。

無知ゆえに「知らされること」ばかり押しつけてきたように思います。学校の成績を上げること、合格させることばかりに目を奪われ、本来あるべき「知ること、学ぶことの喜び」はどうしても後回しにしてきたように思います。

いわば、学ぶことが手段と堕してしまっていたのです。塾はその性格上どうしても、成績向上と合格の責務があります。これを否定することはできません。

ただ、これを究極の目標としてしまいますと、どうしても近視眼的となり、批判の目を曇らせひいてはさまざまな弊害となって現れてきます。

つまり、強制というしばりを用い始めるのです。そしていったんこの手法を用い始めますと、もはや子供の自主性は信じられなくなり、しばりはいっそう強化されていきます。

「テストによる競争」、「宿題の強化」、「強制補講」などですが、これらのしばりを強めれば強めるほど「やらされている」という感情を子供に植え付ける結果となっていきます。

でも、塾は子供の成績を向上させ、志望校に合格させなくてはいけません。この「向上させる、合格させる」が問題なのですが、現場にいますと、ついそうなってしまうことが生じてきます。

この「…させる」ことと「学ぶこと、知ることの喜びを味わう」ことは二律背反的であり、なかなか両立できないものです。

だから、これらを両立させようと思えばどうしても、強制を排除しなくてはならなくなります。

「向上させる」から「向上する」に、「合格させる」から「合格する」に転化できた時、初めて本当の意味での学力向上につながると思います。

理想と現実との間にはいつも大きな乖離があります。でも、灯台として一つの理想を掲げることはやはり次代を担う子供を預かる者として大切なことのように思います。              

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