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2014年10月 6日 (月)

芥川龍之介 紫の火花

芥川龍之介
― 紫の火花 ―
今回は少し、教育を離れて文学の世界に遊んでみたいと思います。
先日、私的な必要性から、芥川龍之介(以下芥川)の主だった作品を読み返してみました。
芥川といえば、「地獄変」、「籔の中」などいかにも理知的で緻密に計算された作品が浮かびますが、実は詩も書いていたことを知って驚かされました。いささか不勉強でしたが、芥川と詩、イメージとしてはどうしても私には結びつかなかったのです。
 私はすっかり当惑してしまいました。
〈この意外性、芥川龍之介とは一体何者ぞ〉
 私は非常に興味を覚えて、芥川に関する様々な評論や文献を読み漁っていきました。
 すると、ネットで萩原朔太郎の芥川へ捧げる追悼文が見つかったのです。これによって私の疑問は氷解したのですが、とても興味をそそられる内容となっておりますので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思います。
萩原朔太郎(以下朔太郎)は芥川を詩のよく分かる人間として認めていました。
「芥川君は、詩に対しても聡明な理解を持っていた。…彼はよく詩壇を論じ、詩について批評した。そして彼の見識はほとんど大抵の場合に正鵠だった。…文壇で我々の自由詩が分かる人は、室生犀星、佐藤春夫の詩人兼小説家を除いて、常に芥川龍之介一人あるのみだった。
概ねの場合に於いて、彼の詩の批評は正しかった。自分はその『批判』に敬服していた…。」
 このように述べて、朔太郎は芥川の詩の批評眼を認めていました。しかし、彼は、私が感じたと同じような違和感を芥川に対して抱いていたのです。朔太郎は言います。
 「彼の批評態度は、常に著しく客観的だった。純粋に鑑賞的であり、主観を混じない美学的観照主義のものであった。…要するに彼は聡明なる『詩の鑑賞家』である。どれが良き詩であり、どれが悪しき詩であるかについて、彼は正しく特別批判する。しかしながらそれだけである。彼自身は詩を持たない。彼自身は詩人ではない。」と。
 芥川は詩の評論家、鑑賞家ではあるけれど、詩人ではない。朔太郎はきっぱりとこう言い切るのですが、ここに、ある出来事が起こります。
ここのところはやはり朔太郎の言葉を借りた方が実感がこもります。
「ある日の朝、めずらしく早起きして床を片づけているところへ、思いがけなく芥川君が跳び込んできた。ここで『跳び込む』という語を使ったのは、真にそれが文字通りであったからだ。実際その朝、彼は疾風のように訪ねてきて、いきなり二階の梯子を駆け上がった。いつも、あれほど礼儀正しく、応接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限って取次の案内を待たず、いきなりづかづかと私の書斎に踏み込んできた。自分はいささか不審に思った。平常の紳士的な芥川君とは、全て態度が違っている。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起こったかと思った。
 『床の中で、今、君の詩を読んできたのだ』
私の顔を見るとすぐ、挨拶もしないうちに芥川君が話しかけた。それから気がついて言いわけした。
 『いや失敬、僕は寝巻きを着てるんだ』」
友人の詩を読んで感動のあまり、寝巻きのまま駆けつける。ここには芥川の意外な一面が余すところなく表現されています。芥川という人はこんなにも純粋で感激的なところがあったのかと思わず微笑んでしまいますが、あの冷徹なまでに計算された作品からは想像し難い出来事です。この後、朔太郎も悩みます。
〈芥川の本質は一体何なのか〉と。
「この日の感激に燃えた芥川君は、平常の鑑賞的な美学者ではなく、そんな批判的の態度を忘れてしまったところの、真に『詩に溺れてる詩人』であった。自分は彼の眼の中に、かつて知らない詩人的な情熱を見た。そしてある解決できない疑問が、この不思議な人物について起こってきた…。」
このように、ここにきて、「芥川は詩の批評家、鑑賞家であるが詩人ではない」という朔太郎の眼はにわかに動揺を来たします。
 そして、今までとは違った関心を持って、次々と発表される芥川の新作を読むようになります。しかし、いずれの作品も朔太郎を満足させません。彼は不満を漏らします。
 「作品に現れた芥川龍之介は、依然として冷静なる『理智の人』であり、常識的判断に富んだインテリゲンチュアにすぎなかった。彼は透明な叡智を持ってあらゆる自然の実相を見通していた。だが彼の眼鏡はいつも素通しであった。何者の影も、その観照を曇らせない。しかしながら、ただ彼はそれを『見る』だけである。そして『感じる』ことをしない」
 朔太郎は詩を次のように解していました。
「私の言語の意味に於いて、『詩』ということは、主観性を観念している。だから主観性のない文学は、私の意味での『詩』ではない上に、自分の芸術上の立場として、対照的な地位に敵視するものでなければならぬ」
 つまり、芥川は詩人でないばかりか、文学上の敵だとまで言い切っています。そして、当時「文芸春秋」に発表されていた芥川の「侏儒の言葉」について、「機智のために機智を弄する弄筆者流の悪皮肉で、憎悪的にさえ不満を感じずにいられなかった」と「憎悪的」という言葉まで使って不満を述べています。
 しかし、あの朝の芥川の行動は極めて非常識的であり、非理智的です。思い切って、詩的といってもいいでしょう。何といっても詩は常識を打ち破ってこそ詩なのですから。そして、朔太郎は悩みに悩んだ末にある決断を下します。
「芥川龍之介―彼は詩を熱情している小説家である」と。
そして次のように述べます。「実に詩人というためには、彼の作品は、あまりにも客観的、合理主義的、非情熱的、常識主義的でありすぎる」
つまり、詩人というには、その作品に、革新性、飛躍があまりにも無さすぎると。
そして、ある同人誌の会の帰途、仲間に次のように言ってしまいます。
「詩が、芥川くんの芸術にあるとは思われない。それは時に、最も気の利いた詩的の表現、詩的構想を持っている。だが、無機質である。生命としての霊魂がない」
この時は、たまたま芥川は所用で欠席していたのですが、やがて彼の耳に入ります。そして、彼に心酔する若い壮士を大勢ひき連れて朔太郎の家にやって来て言います。
「君は僕を詩人でないと言ったそうだね。どういう訳か、その理由を聞こうじゃないか」
朔太郎は恐怖を覚えます。
「『復讐だ!復讐に来やがった』、実にある一瞬間、自分はそう思って観念した。」
しかし、朔太郎もこんな事でびびるような器量ではありません。日を変えて、わざわざ芥川の家に出かけて行きます。やがて、先日の議論が再燃します。とても面白いところです。少し長くなりますが、引用します。
「『君は僕を詩人でないと言ったね。どういう訳だ。もう一度説明したまえ』
だが今日は非常に落ち着いていた。声はむしろ沈痛にさえ沈んでいた。そこで自分は諄々として前からの考えを披露した。
『要するに君は典型的の小説家だ』
自分がこの結論を下した時、彼は悲しげに首をふった。
『君は僕を理解しない。徹底的に理解しない。僕は詩人でありすぎるのだ。小説家の典型なんか少しもないよ』
それから詩と小説との本質観の相違について、我々はまたしばらく議論した。そしてついに自分は言った。
『自分が、自分の立場としての文学論を進めていくと、窮極して芥川君は敵の北極圏に立つことになる。文学上の主張に於いて、遺憾ながら我々は敵である』と。
『敵かね。僕は君の』
そう言って彼は淋し気に笑った。
『反対に』
彼はさらに続けた。
『君と僕ぐらい、世の中によく似た人間はいないと思っているのだ』
『人物の上で…あるいは…。でも作品は全く違うね』
『違うものか。同じだよ』
『いや、違う』
我々は言い争った。しかし終いに、彼は私の強情に愛想をつかした。そして怨みがましい声で言った。
『僕は君を理解している。それなのに君は、君は少しも僕を理解しない。否、理解しようとしないのだ』」
こんなに真剣でせっぱつまった会話は、小説の中でもめったに見られません。
頑として自分の主張を曲げない朔太郎、ケンメイに自分は詩人だと言い張る芥川。恐らく芥川は朔太郎を好きだった、否、愛していたのでしょう。その朔太郎がどうしても、詩人としての自分を認めようとしない。芥川の心中を思う時、こちらまで切なくなってきてしまいます。でも、両者の詩を読み比べてみると、その差は歴然としています。
 現代詩を切り拓いてきた朔太郎の詩は、革新と飛躍に満ちていますが、芥川の詩にはリリシズムは感じられても、革新や飛躍は少しも感じられません。もはや古くさくも感じます。
しかし、小説の世界に於いては、私小説の対極に位置し、ある時期日本の小説の革新者であった訳です。
 芥川龍之介は短編の名手でした。そこに詩を愛した芥川ならではの特性を感じます。しかし、詩人であるためには、あまりにも感性を抑えすぎた、前頭葉が勝ちすぎたように思います。でも、そんな芥川の作品の中でも一つだけ例外があります。それは「蜜柑」です。教科書に出てくる作品でもあり、誰でも知っている作品ですが、この作品だけは、彼の実体験からでしょうか、人工の香りが全く漂って来ません。幽愁に沈んだ作者の心持ちが少女の列車からバラ撒かれるみかんによって一瞬のうちに晴らされる。見事としか言いようのない幕切れで、真に詩的であり、どんな長編にも優る文学の力を感じさせられます。
最後に、彼の摑みそこなった詩心を象徴的に表している文章を「或阿呆の一生」より抜粋します。


  
火花
 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んでいった。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂いを感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

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