2015年12月13日 (日)

読書と学力  ―桜美通信12月号より―

今月の六日の高知新聞の朝刊に「本を読む人だけが手にするもの」というタイトルの本の紹介記事が載っていました。

次の通りです。〈本書によれば、読書をするだけで「ほぼ『10 人に一人』の人材になることができ、「エキスパートの報酬水準(時給1万円以上)に近づく。

それだけじゃない。「創造する力」、「集中力」、「バランス感覚」、「よのなかを生きる力」が身につき、「人生のステージが上がる」上に脳が拡張し、未来予測もできるようになる。さらに、これから先の日本は「本を読む習慣のある人」と「本を読む習慣のない人」に二分される〝階層社会〟がやってくると予言までしている。〉

 いささかオーバーな気もしますが、私自身読書の効用について日頃思うところがあったので大いに首肯しました。

40年近く塾を経営しいろいろな生徒を見てきました。また一時期は幼児教育もやっていたことがあります。

そうした中で、私が体験的に感じていますのは、読書と学力の関係です。この二つには明らかに有意な関係があると実感しています。

よく本を読む子はどことなく落ち着きがあり、能力に深さを感じます。深い脳を持ち、洞察力に優れているように感じられるのです。

原因はいろいろと考えられますが、やはり読書による擬似体験が、脳の鍛錬に最も有効ということだと思います。現実の世界では、大人も含め私たちは空間的にも時間的にも制約された世界に生きています。

いいかえれば、現実に閉じ込められているともいえるでしょう。この現実の密室に風穴を開け、時空を超えて自分を解放してくれるのが読書です。たとえヴァーチャルとはいえ、頭の中がでんぐり返るような体験をくり返ししている子とそうでない子は長い年月を経ますと自ずと違ってくるのは自然なことだと思います。

人の才能は生まれつきか、それとも生まれた後の環境の結果(氏か育ちか)という話がよくされますが、これははっきり両方だといえると思います。生まれ持った脳の組織、いわばハード面には遺伝の影響は否定できないでしょう。

逆に子供はみんな同じ能力を持って生まれてくると考えることは子供の個性を否定することになり科学的な見方ではありません。足の速い子もいれば遅い子もいるのが自然です。しかし、どんなに優秀なハードを備えて生まれてきても、もし狼に育てられたなら、その子はいつまでたっても四つ足で歩き、狼のように遠吠えするだけでしょう。

人は人に育てられない限りとうとう人たりえないということは、狼に育てられた子供のいくたびかの実例が実証しています。 親から受け継いだ能力を十全に開花させてやること、これこそ教育の使命なのですが、教育といえばすぐ机に向かって漢字の練習をしたり、算数の問題を解いたりすることが頭に浮かびます。

これらのことも、もちろんやらなくてはいけない大切なことですが、それに劣らず、いやそれ以上に大切なのが読書です。

脳を鍛える上で読書ほど有効なソフトはないと私は四十年の経験から確信しています。北欧の国フィンランドでは、コンビニの数くらい街中に図書館があるそうです。

だからでしょうか、子供の学力は先進国の中でいつもトップクラスです。東アジアの国々も高位にいますが、それらの国では競争によって無理やりさせられている感があります。フィンランドでは学校間格差もほとんどなくて、みんな地元の高校へ通っているそうです。

強制的にやらすようなこともほとんどありません。それでいて高い学力を保持しているのはなぜか、ちょっと考えさせられます。

1つの要因として、大人も含め一人当たりの読書量が多いということは十分考えられます。 この頃、ゲームやスマホでのメール(ライン)中毒と学力の関係が危惧されていますが、現場にいますと、確かにその影響は感じます。特にゲームをやりすぎている子は何となく分かります。いかにも落ち着きがなく、じっとしていることがとても苦手です。いつもそわそわして心ここにあらずという感じがします。

こういう子供がもっとも苦手とする科目が国語です。どんな科目もそうですが、特に国語は心を落ち着けて心静かに取り組まないとできません。いつもゲームばかりやっていると、文章を読むこと自体がストレスになってくるように思います。いつも反射的な神経動作ばかりやっていると、自然とそういう脳に変化していくのではと思ったりします。

もちろんこれは私の勝手な推測で科学的な根拠がある話ではありません。ただ、私が心配しているのは、ゲームやメールにはまっている子は、ほとんど読書をしていないだろうということです。

このことによる弊害はそれこそ限りなく大きいといわざるをえません。 小さい時から読書に親しむ環境を整備すること、これに優る賢い子供を育てる方法はないといっても過言ではありません。       

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2015年10月13日 (火)

☆「知ることについて」 ―串田孫一の文章からー 桜美通信10月号より


              

私が学生の頃、新聞に掲載された随筆で静かな感銘を受けた文筆家・哲学者に串田孫一がいます。それは、「はたちのころ」というタイトルで、氏の若かりし頃の不透明な気分を描写したものでしたが、私自身ちょうど二十歳の頃であり、またいろいろと思い悩むことも多く心に素直にしみ込んでいきました。

その記事は切り抜いて今でも大切に保管していますが、時々思い出したように開いてみますと、うす黄色に変色した新聞紙からたちまち当時の気分が蘇ってきます。進路を誤ったことに思い悩み、授業にも出ず一人小樽の運河をほっつき歩いていたあの頃が…。

 今回は、そんな思い出多き串田氏の著書の中から、「知ることについて」という文章をとりあげたいと思います。この文章の中で氏は「知ること」と「知らされること」の違いについて次のように述べています。

「知るということの中には、知りたいという意欲がはっきりしている場合を考えています。これだけのことを知っていないと笑われるとか、現代人としての常識に欠けているといわれそうな、ただそのために知るのであれば、外部からの強制的な力によって知ることを努力しているに過ぎません。

そういう人は自分はどうでもよいのです。笑われる、馬鹿にされるという理由だけで動いているのです。

それでも全くの無関心な状態に比べればいいでしょうけれど、しかしそうして知識を得る時には喜びはなくてむしろ苦しみがあるばかりだと思います。

それよりももっと恐ろしいことは、知っている振りをするために、なるべく苦労の少ない手段を選んで、知った振りをするのに必要な知識だけを手許、口先へ用意しておこうという態度です。」

私はこの文章を何度も何度も繰り返して読みました。

ここには教育に携わっている者なら必ず思いあたる耳の痛い内容が述べられています。

 人間として生まれた以上当然備わっている「知りたいという意欲」、また、それを充足したときの「知り得たことの素朴な喜び」、「知ること」とは本来そういうものだった筈です。

 しかし、現実には「外部からの強制的な力によって知ることを努力している」ことがどんなにか多いことでしょう。

そして、「知識を得るときには喜びはなくてむしろ苦しみがあるばかり」という帰結を日々目の当たりにしています。まさに「知らされる」という受け身の教育が蔓延しています。

 氏はさらに続けます。

「虚栄のための知識、あるいは自分の身を飾るための知識は、いざとなったら何の役にも立たないということをここで思い切って申し上げまして、本当に知りたいと思うことを改めて考えていただきたいのであります。・・・

もし真剣にそれを知ろうとして獲得することのできたものなら、それはたとえ本から得たものでありましょうとも、あるいは幼い子供から教えられたものでありましょうとも、必ず自分のものになって、それが素朴な要求であればこそ喜びを伴い、またそれが今すぐに役に立たないものであるにしても、いつかは必ず、形を変えて自分の成長に役立ったというはっきりした証拠を見せてくれるにちがいありません。」

 翻って、自分の行なってきたことを謙虚に思い返してみた時、果たしてどうだったでしょう。

無知ゆえに「知らされること」ばかり押しつけてきたように思います。学校の成績を上げること、合格させることばかりに目を奪われ、本来あるべき「知ること、学ぶことの喜び」はどうしても後回しにしてきたように思います。

いわば、学ぶことが手段と堕してしまっていたのです。塾はその性格上どうしても、成績向上と合格の責務があります。これを否定することはできません。

ただ、これを究極の目標としてしまいますと、どうしても近視眼的となり、批判の目を曇らせひいてはさまざまな弊害となって現れてきます。

つまり、強制というしばりを用い始めるのです。そしていったんこの手法を用い始めますと、もはや子供の自主性は信じられなくなり、しばりはいっそう強化されていきます。

「テストによる競争」、「宿題の強化」、「強制補講」などですが、これらのしばりを強めれば強めるほど「やらされている」という感情を子供に植え付ける結果となっていきます。

でも、塾は子供の成績を向上させ、志望校に合格させなくてはいけません。この「向上させる、合格させる」が問題なのですが、現場にいますと、ついそうなってしまうことが生じてきます。

この「…させる」ことと「学ぶこと、知ることの喜びを味わう」ことは二律背反的であり、なかなか両立できないものです。

だから、これらを両立させようと思えばどうしても、強制を排除しなくてはならなくなります。

「向上させる」から「向上する」に、「合格させる」から「合格する」に転化できた時、初めて本当の意味での学力向上につながると思います。

理想と現実との間にはいつも大きな乖離があります。でも、灯台として一つの理想を掲げることはやはり次代を担う子供を預かる者として大切なことのように思います。              

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2015年9月30日 (水)

中学入試について 桜美通信9月号より

 私立中入試は、学校で履修する内容をはるかに逸脱したレベルの問題が出題されるため、それなりの訓練をしていなければなかなか合格できないのが実情です。また、個人のレベルに合わせるのではなく、受験する学校に合わせて授業が行われるため、さまざまな弊害が生じるのも事実です。それは以下のようなことです。

・自分の現在の学力をはるかに超えた問題をやらされるため自信を失い、学習意欲にとってもっとも大切な、「やればできる」という有能感をなくしてしまう。

・塾にとって、「合格させること」は使命であり、どうしても、強制的にやらせる方向に、それも長時間拘束による学習に向かいがちになる。結果、「勉強はやらされるもの」、「嫌でもがまんして詰め込むもの」という先入観を育てることになる。

・塾によっては、合格第一主義の観点から、子供の人格を無視した暴言や過度の競争を煽るさまざまな方策がとられ、子供の健全な成長をそこなう恐れがある。

 以上のようなことがあげられます。
 そこで、私達はこのような弊害をなくした上での私立中受験のあり方をずっと模索して参りました。そして辿りついたのが次のような方策です。

・まず、ドリーム教室〔私立中受験を目的としない教室〕に入ってもらい、私立中入試の適性があるかどうか判断する。
 子供にはそれぞれ、その時点での発達段階に個人差があります。現段階では無理が生じると判断した場合は、子供さんのためにもその旨お知らせして無理に受験に取り組むことはいたしません。

・子供の日常生活を大切にする。
 小学期は、肉体的にも精神的にもまさに成長期。その成長を歪めるような無理なカリキュラムはいっさい行いません。従って夏期講座などの集中講座も、従来のような弁当持参での長時間授業はいっさい致しません。

・あくまで子供の心の成長を目標にした授業を行う。
 「自分の将来を切り拓くために学ぶ」という強い自立の心を大切に育てます。塾は「合格」という二文字にとらわれるあまり、ともすれば視野が狭くなり、肝心の子供の心や考える力を伸ばすことがおろそかになってきました。私達はあくまで、大切なのは子供の心や考える力であり、その結果として「合格」に繋がるという考えです。その方が結果として、はるかに伸びると考えています。

・自宅で計画して学習できる子に育てる。
 毎月のテスト対策をきちんと自宅で計画してできるように指導します。塾での授業時間が少ない分、これはとても大切なことです。

 そして、これができるようになった子供は驚くような成績の伸びを見せます。さらに、そのような子供は、将来、中学校に進みましても自らすすんで学習できますので何の心配もいりません。逆にいいますと、このようなことができなければ、私立中学受験の適性がないということになります。
 以上のような考えで、そのような塾の方針に賛同いただいた場合のみおあずかりするようにしています。半世紀前の受験の風景は、はっきりいってもう古いです。現在の日本で求められているのは創造性や柔らかい発想のできる頭脳であり、受験に一点集中した詰め込みからは決して育たない能力です。
 現在、六年生が二人受験に取り組んでいます。しかし、その風景はいたってのどかなものです。それでいて成績は優秀です。そうあるべきだし、また、そうであるからこその結果だと思います。     

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2015年6月15日 (月)

生徒のみなさんへ  「わからない」ということ


 一生の間に人はどのくらいのことを知ることができるのでしょう。昔に比べれば、科学は驚異的な発達を遂げました。科学的知識は飛躍的に増大したといえるでしょう。しかし、現在の科学をもってしても、宇宙や生命のほんの一部がわかったに過ぎません。大部分は依然として、深い神秘のベールに包まれたままです。


人間の精神や心の領域となりますと、果たして、進歩しているかどうかも怪しいものです。
我々は果たして、縄文時代の人々の心よりも優れているでしょうか。知識は世代ごとに継承できても、精神や心は一人一人が自分で耕していく他ありません。いつも生存の危機に脅かされていた太古の時代の人々の方が、豊かさの中に生きる私達よりも、助け合いの心や、思いやりの心は発達していた可能性は十分考えられます。物質的豊かさと精神的豊かさはどうも反比例の関係にあるようです。


 私たちはなぜ人として生まれ、今、この世に存在しているのか、なぜミミズやゴキブリでなかったのかとなりますと、いくら考えてもわかりません。また、人間に生まれたとしても、なぜこの時代に、この日本に、この両親の下に生まれたのかとなりますと、これはもう奇跡中の奇跡、確率の範疇を遥かに越えています。神の存在を考えたとしても不思議ではありません。私たちの存在は奇跡なのです。だからこそ、かけがえのない生を大切に生きなくてはいけません。


 このようなことは、忙しく過ごす日々においては、すっかり忘れてしまっています。当然のことです。でも、考えるということは、このように根源的な問を発することから始まります。

いくら考えても答えは出てこないでしょう。しかし、答えが出てこないからといって価値がないかというと、決してそんなことはありません。逆にいうと、すぐ答えが出るものはそれだけの問いなのです。学校や塾で解く問題は初めから唯一の正解があります。ほとんど暗記でできてしまう問題も多いです。このような正解のある問題を解くことからは、本当の意味で考えることには決して到達できないでしょう。ガリ勉の問題はそこにあります。

この世界にはわからないことがたくさんあります。大切なことほどわかっていません。私達はわからないことの山にうずもれているといっても過言ではありません。
しかし、わからない事は果たして悪いことでしょうか。

「無知の知」という有名な言葉があります。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉です。「自分は大切なことは何もわかっていないということを知っている」という意味です。
 自分がよくわかっていないと自覚しているということです。世の中には何でもよく知っていると、博識をひけらかす人もいますが、そういう人は自分で自分の頭に蓋をしていることになります。そう自覚していることで、進んで学ぼうという姿勢の芽を摘むことに繋がるからです。

人はわからないと自覚することで学ぼうとします。「わからないことは高貴な可能性」なのです。
学校の勉強は、これから将来にわたって生きていくための土台として大切ですが、それだけでは十分ではありません。結婚・就職・転職などにおいて大切なことは、自分で考えて正しく判断できる力です。まさに正解のない問いです。

 皆さんはこの世に奇跡的に生まれ、この世界に投げ出された存在です。絶対的自由の中、自分の力で自分にふさわしい未来を切り拓いていかなければなりません。もはや私たちの世代のような社会の敷設したレール(良い学校、良い大学、良い会社)にのっかればどこまでも安全という時代ではありません。
 そういう時代を生き抜くためにも、自分の頭で深く考える習慣を身につけて下さい。     

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2015年5月13日 (水)

アンダーマイニング効果について 

 人はだれでも、幼児の頃は何にでも興味をもち、旺盛な好奇心を示します。

それが、小学校に入学後、急激に好奇心や探求心を失ってしまうのはどうしてでしょうか。

  このことは、学習意欲の向上に興味を持っている私の頭の片隅にいつも引っかかっていた事でした。

〈それは恐らく、学校という組織に入るといわゆる「勉強」になってしまうからだろう〉と漠然と考えていました。

学校へ入れば、自分の興味を覚えることだけを選択してやる訳にはいかなくなります。

自分にとって苦手な事、嫌いな事もしなくてはいけません。 ここに、どうしても「強制」という事態が生じてきます。

この「強制」こそが、「やらされるという感情」こそが、好奇心や探求心を失う最大の原因なのではないか、そのように思っていました。

そんな時、ある教育心理学に関する本を読んでいますと、ふとこの「アンダーマイニング効果」という言葉が目に飛び込んできました。

この言葉の意味は、ある行為が学習者の内発的学習意欲を低下させてしまう事を指しています。

そして、この「アンダーマイニング効果」と「報酬」との関係を研究したアメリカのデシ先生の研究を興味深く拝読した事でした。

当時のアメリカ心理学会では、「報酬」こそが人間の学習を成立させる最たるものであると考えられていました。

しかし、この事に疑問を持ったデシ先生は「報酬」によって、子どもの内発的動機づけは逆に低下してしまう事を、巧みな心理学実験で実証してしまいました。

これは大学生を被験者にして、ソマパズルというおもしろいブロックを使って行う実験なのですが、その詳細は紙面の都合上、割愛します。

「金銭」や「品物」という報酬を与える事によって、子供の学習意欲は逆に低下してしまう、この事は当時のアメリカの常識をくつがえすもので、アメリカの心理学会に衝撃をもたらしました。

さらに、他の研究者達によって、今度は幼児を対象にした実験も行われました。

  この実験によって、「アンダーマイニング効果」を生み出すものが、報酬そのものというより、幼児が報酬を「期待する」ことに起因する事も明らかにされました。

また、「ほめ言葉」のような言語的報酬は「アンダーマイニング効果」を引き起こしにくい事が予想されます。

  ただ、子どもが、まったく学習意欲がない時には、報酬の効果はある程度認められますが、そこには非常に危険が伴います。

それは、どうしても報酬で「やらされている」という感覚が生じるからです。

そして、学習意欲が向上してきたときに、果たして、報酬を与えることをやめる事ができるでしょうか。

人間は、過去の成功体験から、なかなか脱出できないものです。

つい、深く考えずに慣習的に安易な方へと流されてしまいます。

「報酬」はいわば、「馬の鼻先のにんじん」です。

「報酬」でつる事は厳しく言えば、子どもを家畜並に扱う事であり、子どもの人格の尊厳を結果として傷つける事になります。

「人間は何のために学ぶのか」 私は機会あるごとに子ども達に言っています。

「それは、自分の未来を切り拓くため、そして、結果として社会に貢献するためなんだ」と。「自分の未来は自分で切り拓く」、この心意気を私はどうしても子ども達に培って欲しいです。そういう気持ちが子どもの心の内に芽生えた時、ハングリーさを失ったこの現代においても、たくましく生きていく事は十分可能です。

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2014年10月 6日 (月)

芥川龍之介 紫の火花

芥川龍之介
― 紫の火花 ―
今回は少し、教育を離れて文学の世界に遊んでみたいと思います。
先日、私的な必要性から、芥川龍之介(以下芥川)の主だった作品を読み返してみました。
芥川といえば、「地獄変」、「籔の中」などいかにも理知的で緻密に計算された作品が浮かびますが、実は詩も書いていたことを知って驚かされました。いささか不勉強でしたが、芥川と詩、イメージとしてはどうしても私には結びつかなかったのです。
 私はすっかり当惑してしまいました。
〈この意外性、芥川龍之介とは一体何者ぞ〉
 私は非常に興味を覚えて、芥川に関する様々な評論や文献を読み漁っていきました。
 すると、ネットで萩原朔太郎の芥川へ捧げる追悼文が見つかったのです。これによって私の疑問は氷解したのですが、とても興味をそそられる内容となっておりますので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思います。
萩原朔太郎(以下朔太郎)は芥川を詩のよく分かる人間として認めていました。
「芥川君は、詩に対しても聡明な理解を持っていた。…彼はよく詩壇を論じ、詩について批評した。そして彼の見識はほとんど大抵の場合に正鵠だった。…文壇で我々の自由詩が分かる人は、室生犀星、佐藤春夫の詩人兼小説家を除いて、常に芥川龍之介一人あるのみだった。
概ねの場合に於いて、彼の詩の批評は正しかった。自分はその『批判』に敬服していた…。」
 このように述べて、朔太郎は芥川の詩の批評眼を認めていました。しかし、彼は、私が感じたと同じような違和感を芥川に対して抱いていたのです。朔太郎は言います。
 「彼の批評態度は、常に著しく客観的だった。純粋に鑑賞的であり、主観を混じない美学的観照主義のものであった。…要するに彼は聡明なる『詩の鑑賞家』である。どれが良き詩であり、どれが悪しき詩であるかについて、彼は正しく特別批判する。しかしながらそれだけである。彼自身は詩を持たない。彼自身は詩人ではない。」と。
 芥川は詩の評論家、鑑賞家ではあるけれど、詩人ではない。朔太郎はきっぱりとこう言い切るのですが、ここに、ある出来事が起こります。
ここのところはやはり朔太郎の言葉を借りた方が実感がこもります。
「ある日の朝、めずらしく早起きして床を片づけているところへ、思いがけなく芥川君が跳び込んできた。ここで『跳び込む』という語を使ったのは、真にそれが文字通りであったからだ。実際その朝、彼は疾風のように訪ねてきて、いきなり二階の梯子を駆け上がった。いつも、あれほど礼儀正しく、応接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限って取次の案内を待たず、いきなりづかづかと私の書斎に踏み込んできた。自分はいささか不審に思った。平常の紳士的な芥川君とは、全て態度が違っている。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起こったかと思った。
 『床の中で、今、君の詩を読んできたのだ』
私の顔を見るとすぐ、挨拶もしないうちに芥川君が話しかけた。それから気がついて言いわけした。
 『いや失敬、僕は寝巻きを着てるんだ』」
友人の詩を読んで感動のあまり、寝巻きのまま駆けつける。ここには芥川の意外な一面が余すところなく表現されています。芥川という人はこんなにも純粋で感激的なところがあったのかと思わず微笑んでしまいますが、あの冷徹なまでに計算された作品からは想像し難い出来事です。この後、朔太郎も悩みます。
〈芥川の本質は一体何なのか〉と。
「この日の感激に燃えた芥川君は、平常の鑑賞的な美学者ではなく、そんな批判的の態度を忘れてしまったところの、真に『詩に溺れてる詩人』であった。自分は彼の眼の中に、かつて知らない詩人的な情熱を見た。そしてある解決できない疑問が、この不思議な人物について起こってきた…。」
このように、ここにきて、「芥川は詩の批評家、鑑賞家であるが詩人ではない」という朔太郎の眼はにわかに動揺を来たします。
 そして、今までとは違った関心を持って、次々と発表される芥川の新作を読むようになります。しかし、いずれの作品も朔太郎を満足させません。彼は不満を漏らします。
 「作品に現れた芥川龍之介は、依然として冷静なる『理智の人』であり、常識的判断に富んだインテリゲンチュアにすぎなかった。彼は透明な叡智を持ってあらゆる自然の実相を見通していた。だが彼の眼鏡はいつも素通しであった。何者の影も、その観照を曇らせない。しかしながら、ただ彼はそれを『見る』だけである。そして『感じる』ことをしない」
 朔太郎は詩を次のように解していました。
「私の言語の意味に於いて、『詩』ということは、主観性を観念している。だから主観性のない文学は、私の意味での『詩』ではない上に、自分の芸術上の立場として、対照的な地位に敵視するものでなければならぬ」
 つまり、芥川は詩人でないばかりか、文学上の敵だとまで言い切っています。そして、当時「文芸春秋」に発表されていた芥川の「侏儒の言葉」について、「機智のために機智を弄する弄筆者流の悪皮肉で、憎悪的にさえ不満を感じずにいられなかった」と「憎悪的」という言葉まで使って不満を述べています。
 しかし、あの朝の芥川の行動は極めて非常識的であり、非理智的です。思い切って、詩的といってもいいでしょう。何といっても詩は常識を打ち破ってこそ詩なのですから。そして、朔太郎は悩みに悩んだ末にある決断を下します。
「芥川龍之介―彼は詩を熱情している小説家である」と。
そして次のように述べます。「実に詩人というためには、彼の作品は、あまりにも客観的、合理主義的、非情熱的、常識主義的でありすぎる」
つまり、詩人というには、その作品に、革新性、飛躍があまりにも無さすぎると。
そして、ある同人誌の会の帰途、仲間に次のように言ってしまいます。
「詩が、芥川くんの芸術にあるとは思われない。それは時に、最も気の利いた詩的の表現、詩的構想を持っている。だが、無機質である。生命としての霊魂がない」
この時は、たまたま芥川は所用で欠席していたのですが、やがて彼の耳に入ります。そして、彼に心酔する若い壮士を大勢ひき連れて朔太郎の家にやって来て言います。
「君は僕を詩人でないと言ったそうだね。どういう訳か、その理由を聞こうじゃないか」
朔太郎は恐怖を覚えます。
「『復讐だ!復讐に来やがった』、実にある一瞬間、自分はそう思って観念した。」
しかし、朔太郎もこんな事でびびるような器量ではありません。日を変えて、わざわざ芥川の家に出かけて行きます。やがて、先日の議論が再燃します。とても面白いところです。少し長くなりますが、引用します。
「『君は僕を詩人でないと言ったね。どういう訳だ。もう一度説明したまえ』
だが今日は非常に落ち着いていた。声はむしろ沈痛にさえ沈んでいた。そこで自分は諄々として前からの考えを披露した。
『要するに君は典型的の小説家だ』
自分がこの結論を下した時、彼は悲しげに首をふった。
『君は僕を理解しない。徹底的に理解しない。僕は詩人でありすぎるのだ。小説家の典型なんか少しもないよ』
それから詩と小説との本質観の相違について、我々はまたしばらく議論した。そしてついに自分は言った。
『自分が、自分の立場としての文学論を進めていくと、窮極して芥川君は敵の北極圏に立つことになる。文学上の主張に於いて、遺憾ながら我々は敵である』と。
『敵かね。僕は君の』
そう言って彼は淋し気に笑った。
『反対に』
彼はさらに続けた。
『君と僕ぐらい、世の中によく似た人間はいないと思っているのだ』
『人物の上で…あるいは…。でも作品は全く違うね』
『違うものか。同じだよ』
『いや、違う』
我々は言い争った。しかし終いに、彼は私の強情に愛想をつかした。そして怨みがましい声で言った。
『僕は君を理解している。それなのに君は、君は少しも僕を理解しない。否、理解しようとしないのだ』」
こんなに真剣でせっぱつまった会話は、小説の中でもめったに見られません。
頑として自分の主張を曲げない朔太郎、ケンメイに自分は詩人だと言い張る芥川。恐らく芥川は朔太郎を好きだった、否、愛していたのでしょう。その朔太郎がどうしても、詩人としての自分を認めようとしない。芥川の心中を思う時、こちらまで切なくなってきてしまいます。でも、両者の詩を読み比べてみると、その差は歴然としています。
 現代詩を切り拓いてきた朔太郎の詩は、革新と飛躍に満ちていますが、芥川の詩にはリリシズムは感じられても、革新や飛躍は少しも感じられません。もはや古くさくも感じます。
しかし、小説の世界に於いては、私小説の対極に位置し、ある時期日本の小説の革新者であった訳です。
 芥川龍之介は短編の名手でした。そこに詩を愛した芥川ならではの特性を感じます。しかし、詩人であるためには、あまりにも感性を抑えすぎた、前頭葉が勝ちすぎたように思います。でも、そんな芥川の作品の中でも一つだけ例外があります。それは「蜜柑」です。教科書に出てくる作品でもあり、誰でも知っている作品ですが、この作品だけは、彼の実体験からでしょうか、人工の香りが全く漂って来ません。幽愁に沈んだ作者の心持ちが少女の列車からバラ撒かれるみかんによって一瞬のうちに晴らされる。見事としか言いようのない幕切れで、真に詩的であり、どんな長編にも優る文学の力を感じさせられます。
最後に、彼の摑みそこなった詩心を象徴的に表している文章を「或阿呆の一生」より抜粋します。


  
火花
 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んでいった。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂いを感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

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2014年6月23日 (月)

「自ら学ぶ意欲の心理学」  櫻井茂男著  その10

  
前回まで、自ら学ぶ意欲に与える教育の影響について、中学生までの先生のお考えを紹介致しましたが、高校生・大学生につきましては対象となる生徒が少ないため、省略させていただきます。それで、今回からは、自ら学ぶ意欲と学業成績、精神的健康や自ら働く意欲との関係について、先生の意見を紹介致します。
さまざまな研究により、自ら学ぶ意欲が高いと学業成績もよいことが報告されていますが、これはほぼ予想された内容です。ただ、注目すべきは、学習の質との関連です。
グロルニックとライアンという二人の研究者の実験結果を報告します。
小学生を二群に分け、一つの群れには教科書に掲載されている短い文章を読むように教示します。もう一つの群れにも同じ文章を読むように教示しますが、さらに後でテストをして成績の一部にすることをつけ加えます。
後者の群は外発的な学習意欲を喚起した群であり、それに比べると前者の群は内発的(自ら学ぶ)意欲が高い群といえる訳です。
実験終了後、両群の成績を比べますと、機械的な暗記問題では外発的な学習群の方が優れていましたが、学習内容の概念的理解を問う問題では、内発的に(自ら)学ぶ群の方が優れていました。
この結果は一見しますと、学習内容の概念的理解という面では、内発的な(自ら学ぶ)意欲の高い方が有利で、機械的暗記という面では、外発的な学習意欲の高い方が有利なように見えます。しかし、一週間後に行われた成績の再チェックでは、機械的な暗記問題における外発的な学習群の優位性は失われていたのです。この結果は長い目で見ますと内発的な(自ら学ぶ)意欲の高い群の方が、質の高い学業成績を修めることが期待できることを示唆しています。しかし、それにしましても、テストの効用について、私はいろいろ考えさせられました。以前も見ましたように、後でテストを行うと言っただけで意欲をなくしてしまう子どももいますし、そのうえ、学びも浅くなるというのでは、よく考えて実施しなく
てはいけません。受験学年では、相対的な自分の位置を知るために必要なのですが、そうでない学年では、むやみにテストを行うことは極力控えた方がよさそうです。特に、順位を競うようなテストは、外発的な力がいっそう強く働きますので要注意です。理解度、定着具合を確認するための必要最小限のテストで、その結果も、決して他者と比べたりするのではなく、過去の自分と比較する、いわゆる自分の成長具合が把握できる内容にすべきでしょう。そのような場合のみ、テストのマイナス面は最小に抑えることができると思います。
次回は、自ら学ぶ意欲と精神的健康の関係について、先生の意見をご紹介いたします。   

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2014年6月13日 (金)

「自ら学ぶ意欲の心理学」10   櫻井茂男著  

 

 今まで、9回にわたり、櫻井先生の「自ら学ぶ意欲の心理学」について解説して参りましたが、ひとまず、今回で終了させていただきます。ただ、この本の内容からしますと、大切と思われるパートのみを取り出した感があり、決してこれで全体を見通せた訳ではありません。これからも現場で日々生じてくる現実に対処していく上で、必要に応じてこの本を参照し皆様と共に考えていきたいと思います。

 

◎自ら学ぶ意欲と精神的健康との関係

 

 本書では、精神的健康とは、生活満足度や自尊感情が高く、不安や抑うつが低い状態と定義されています。

 

 自ら学ぶ意欲が高ければ、精神的にも健康であることは容易に想像できることではありますが、さまざまな調査結果もそのことを実証しています。一つの例を挙げますと、118名の大学生には自己価値尺度(自分を価値ある人間と思うかどうかを測定する尺度)を、別の130名の大学

 

生には充実感尺度(自分の人生が充実していると思うかどうかを測定する尺度)を実施し、自ら学ぶ意欲測定尺度との関係を検討しました。そ

 

の結果、いずれも有意な正の相関が認められました。つまり、自ら学ぶ意欲が強い大学生ほど、自分を価値ある人間と思い、自分の人生が充実していると思っているということです。

 

 自分の学生時代を振り返りますと、ただ北国への憧れだけで、気に染まない学部を選んでしまい、すっかり学習意欲を失ってしまいました。毎日、下宿にとじこもって本ばかり読んでいましたが、不安感は強く、決して健康的な精神状態ではありませんでした。でも、そうでもしなければ、北国で暮らすことはとうていできなかった訳で、今ではまったく後悔していませんが・・・。

 

さらに、中学生、小学生を対象にした調査におきましても、同様の結果が出ています。

 

 すなわち、自ら学ぶ意欲が高いと、学習場面での不安が生じにくく、平常心で授業が受けられるということです。

 

 「平常心で授業が受けられる」、このことは皆様はそんなに大切なことかと疑問に思われるかもしれませんが、極めて重要なことです。教壇から見ていますと、一目瞭然ですが、心に不安を抱えている子どもはどうしても落ち着くことができません。目がそわそわして泳ぎ、心ここにあらずの状態です。安心を得るため、つい同じような仲間に話しかけます。そうして、先生に怒られる羽目になります。

 

 このことを解決するためには、学びの場である教室が、即彼らの居場所になることが必要です。安心して学べる場にならなければいけません。「今のままでいいんだよ。少しずつわかるようになっていこうね。」

 

 まず、教える私たちがこういう気持ちになることが必要なんですが、あまりにも忙しすぎますと、つい忘れてしまいます。だから、私たちにもゆとりが必要です。効率ばかり追求しますと、どうしても、焦りが出てきます。焦りの中からは一つも良いことは生まれません。それで、これからは、チームティーチングの人数も増やし、ゆったりとした時間の流れの中で、学びの場が互いに「楽しいひととき」と感じられるように改善していきます。

 

 そういう中でこそ、失った自信を回復することができ、学習意欲も徐々に培われ、よって安心して平常心で授業が受けられるようになる。いわば良循環の連鎖に近づくことが可能になると思います。

 

 次に「自ら学ぶ意欲」と「創造性」の関係を見ていきます。

 

 思考は一般に、与えられた問題に対して一つの解答を見つけるような「収束的思考」(集中的思考)と与えられた情報の中から新しい知識や問題を発見するような「拡散的思考}に分けられます。このうち、拡散的思考によって、独創的でかつ有用な結果を生み出す能力のことを、「創造性」といいます。創造性は新しい科学技術の誕生や独創的な芸術作品の産出には欠かせません。こうした想像性を測定するテストも開発されています。

 

図1

 

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図2

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上図「代替利用問題」は非凡性を表し、「アナグラム問題」は柔軟性を、「遠隔連想問題」は遠隔連想性を表しています。 

 さらに図2のように、学力と集中的思考、拡散的思考は異なった側面からではあるものの、プラスの影響が見られます。

 

 ただし、知能と創造性とは思考の方向が異なるため、独立の関係にあると考えられています。私個人の直観では、あまりにも集中的思考型の問題(受験勉強のような)ばかりやりすぎますと、拡散的思考、つまり創造性は失われるのではないか、少なくとも拡散的思考の翼の自由な羽ばたきを阻害するのではないかと危惧しています。つまり、ガリ勉から詩人は生まれないと・・・。

 

 次に外的報酬や外的評価と創造性との関係についての調査を報告します。

 

 アマビルという学者は、大学生を対象に、芸術作品を課題として、次のような調査を行いました。

 

 他者からの評価のあり方を基準に、技術的な評価を受ける群、創造的な評価を受ける群、評価がない群の三群を設けて検討した結果、もっとも創造性が高かったのは、評価がない群でした。

 

 このことから、大学生は外的評価によって、外発的に動機づけられると、創造性が低くなることが明らかにされました。

 

 このことは、外的報酬や外的評価が内発的動機づけを低下させる、いわゆるアンダーマイニング現象が影響していると思われますが、内発的動機づけが創造性を高めるという確証は得られていません。

 

 先生は、結論として、「自ら学ぶ意欲は創造性を高めるのか、という問いに対する答えとしては『その可能性は高い』というのが妥当な結論であろう」と述べられています。                          (廣瀬)

 

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2014年5月13日 (火)

「自ら学ぶ意欲の心理学」  櫻井茂男著 その9

 

 

前号では、児童期(小学時代)における「自ら学ぶ意欲」に与える教育の影響を見てきましたが、今回からは青年期(中学・高校・大学)における櫻井先生のご意見を三回に分けてご紹介したいと思います。

 

 ただ、すべての内用を網羅することは、あまりにも大部の枚数となるため、勝手ながら私が大切だと思うところに絞らせていただきます。

 

・青年期前期(中学校時代)の教育

 

乳幼児期小学時代中学時代となるにつれて、教師の役割が重要になってきます。

 

小学時代の教育との大きな違いとして、先生は次の四つのことを挙げられています。

 

(一) 授業が専門家することへの対応をすること。

 

(二) 自分を見つめる作業を促すこと。

 

(三) 向社会的欲求を充実させること。

 

(四) 将来目標(人生目標)をもてるように促すこと。

 

以上の四項目の中で(一)の「授業が専門化すことへの対応」に絞って考察していきます。

 

授業の専門化における教師の留意すべき点にとして、先生は次のように言及されています。

 

 

 

(a) 子供の得意・不得意に配慮する。

 

小学時代に比べ、中学時代は授業がより専門化し、むずかしくなります。それにつれて、小学校の時はあらゆる教科がよくできた子供でも、得意・不得意の教科がはっきりしてきます。これは学習全般に対する有能感がしだいに弱まってくることを示唆しており、ショックを覚えるとともに自信を失う子供も出てきます。つまり、今までのように何でもよくできるという訳にはいかないことに絶望し、抑うつ傾向を呈するようになる訳ですが、特に完全主義傾向の強い子がそうなりやすいといわれています。

 

 このことは中学一年生にときどき見られることですが、打ち砕かれた全能感に代わって等身大の有能感を身につけたり、自分の学習に対する適性を知るチャンスでもあります。

 

「これからは、だれにも得意な教科と不得意な教科があることを理解させないといけないであろう」

 

 先生はこう述べられておりますが、私も自信を失った子供に対して同じようなことをよく口にします。

 

「世の中は分業で成り立っている。将来は自分の長所を伸ばして生きていけばいい。苦手なところは受験で足をひっぱられないくらいにそこそこ・・・。何も目のかたきにしなくてもよい」と。

 

 いささか乱暴な発言に聞こえるかもしれませんが、苦手なことにかかりきるのはいかにもつらいことで、それよりは得意なことをどんどん伸ばすほうが楽しく感じられるし、実りも多く自信もつきやすいのではないでしょうか。

 

 なお、不得意な教科に関しましては「以前の自分よりもできることに喜びを感じられる自己成長の考え」を先生は推奨されています。

 

(b) 最高段階の思考能力を駆使させる。

 

 「中学生になると、思考力はピアジェのいう最高の段階、すなわち『形式的操作の段階』に達する。この段階では、それ以前の具体的操作の段階に比べると、具体物がなくても論理的思考ができ、さらに抽象的な思考もできるようになるという。この段階で大事なことは、こうした

抽象的

(

・・・

)

(

)

思考

(

・・

)

(

)

楽しむ

(

・・・

)

ことである。数学や理科といった教科は、

考える

(

・・・

)

こと

(

・・

)

(

)

楽しめない

(

・・・・・

)

(

)

好き

(

・・

)

(

)

はなれない

(

・・・・・

)

。数学の問題の多様な解き方を考えてみるとか、理科の問題の現実への応用を考えてみるとか、多くの機会を通して、

考える

(

・・・

)

楽しさ

(

・・・

)

(

)

経験

(

・・

)

させる

(

・・・

)

ことが

重要

(

じゅうよう

)

である。有能さへの欲求はこうした思考によって、充足されることが多い」

 

先生は「最高段階の思考能力」について、このように述べられていますが、今回、私がもっとも強調したいのもこのことであります。

 

前回も少し触れましたが、抽象的思考力の弱さは常に現場で痛感しているところであります。具体的な例を挙げると理解できても、少し内容を変えるともう理解できない、つまりそれらに共通するルールがなかなかつかめない訳ですが、これではまったく応用がききません。原因はいろいろ考えられますが、前回でも触れました通り、あまりにも暗記に偏重した教育の影響があるように思えて仕方ありません。「勉強とは覚えること」、もし、子供たちがそういう先入観を抱いているとしたらこれを打ち破ることはなかなか大変です。先生も言われている通り、「抽象的な思考を楽しむこと」、「考える楽しさを経験させること」、解決策はこれに尽きると思いますが、そのためには結果を急がないゆったりとした時間が必要です。

 

 テストの結果にあまりにもこだわるあまり、つい、よく理解できていなくても解き方だけ暗記してしまおう、こういう現象は頻繁に見られるように思います。その気持ちはよくわかるのですが、抽象的思考力を育てるためには、拙速に結果ばかり追い求める心の構造を少し改めてみる必要がありはしないでしょうか。考える力が育てば、やがて大きな果実を実らせてくれるものですから。

 

 (c)自分流の学習スタイルを身につけさせる

 

「中学校時代には、個性(教科の好き嫌いや得意・不得意もその一つ)がはっきりしてくる。学習のスタイルも個性的になる。短時間で集中的に勉強する子ども、反対に長い時間をかけてゆっくり勉強する子どもがいたり、しっかりノートを作りそれに基づいて大事な知識を吸収する子供、ノートは作らずに教科書を読み込んで知識を吸収する子供がいたりする。この時期は自分に有利な学習スタイルを発見し、それを駆使して効率的に勉強することが大事になる」

 

 先生はこのように述べられて、自分に合った学習スタイルを身につけることの大切さを強調されています。

 

 こういう仕事をしていますと、「この子は勉強の仕方がわかっていません。まず、そこから教えてやって下さい」、しばしばこういうご父母の皆さんの相談を受けます。何とかしてやりたいという親御さんの気持ちはよくわかるのですが、人間に個性がある限り、万民に共通の勉強法というものはありえません。まったく基礎学力が不足している場合を除き、中学生ともなれば、自分に合った学習スタイルを自分で発見し、改善していくべきでしょう。テレビで「東大生のノート」なんかを取りあげて推奨したりしていますが、それをそのまま真似しようとしても果たしてうまくいくでしょうか、はなはだ疑問に思います。もちろんそれを参考にして、自分でもできるし、ぜひやってみたいと思うところは取り入れればいいですが、ここは自分には無理だなと思うところはいさぎよくカットすべきでしょう。勉強に限らず、スポーツでも何でも

他人

(

ひと

)

が成功しているからといって、そっくり真似をしてもまずうまくいきません。理由は考えてみればまことに明白です。その人の真似をしてうまくいくならば、この世は成功者ばかりとなってしまうからです。

 

 こういう風に考えてきますと、教える側もできるだけ子供の個性を尊重し、型にはめようとすることは極力避けるべきです。それは子供から、自ら考えるための自由と機会を奪うことになり、結果として、柔軟でしなやかな思考のできる人間が育ちにくくなるからです。逆に、少子化の中で依頼心の強まっている現代の子供たちにいかにして自ら考える力を養うかが急務ですが、そのためにはやはり結果にとらわれないこと、結果よりは過程を大切にしたスローな授業が求められているように思います。

 

(d)嫌いな勉強を好きにさせる

 

「中学校時代になると教科の得意・不得意がはっきりしてくる。そして、不得意な教科は嫌いな教科となり、自分から取り組むことが難しくなる。こうした嫌いな教科を好きにさせる(喜んで自ら学ぶようにさせる)ことはかなり難しいことではあるが、それでも教師の努

 

力によって、

好き

(

・・

)

(

)

(

)

ない

(

・・

)

けれど

(

・・・

)

(

)

(

)

(

)

自ら

(

・・

)

学べる

(

・・・

)

よう

(

・・

)

(

)

させる

(

・・・

)

ことはできる」

 

 先生も述べられている通り、嫌いな教科を好きにさせたり得意な教科にすることは、至難ですし、あえて私は、そんな道を選ばなく手もいいように思います。ただ、「好きではないけれど何とか自ら学べるようにする」ことはやはり大切で、投げてしまっては、志望する高校への進学は諦めなくてはなりません。そのために、先生は次の六つのことを挙げておられます。そのまま記します。

 

(一) やりたくないという子供の気持ちを受容する。

 

「教師に受容してもらうと、気持ちにゆとりができ、嫌いな勉強でもしてみようかな、という気になる」

 

(二) 高圧的な態度はとらない。

 

「どうしてもやらせたいという教師心(親心)はわかるが、この態度は逆効果である。子供に意地でもやるものか、という態度を形成させてしまう」

 

(三) 合理的な理由を説明する。

 

「嫌いな勉強をなぜしなければならないのか、その合理的な理由とは、中学生の場合、自分の将来目標を達成することであったり、社会人として必要な知識を身につけることであったりする」

 

(四) 将来目標をもたせる。

 

「自分が将来こうなりたいという将来目標がもてれば、その目標を達成するために、嫌いな勉強でも自らするようになる。その目標が本当に達成したい目標であるほど、自ら学ぶ傾向も強くなる。ただ、将来目標は遠い目標なので、将来目標と関連した身近な目標の設定も重要である」

 

(五) 子供の興味・関心と関連づけて教える。

 

(六) 嫌いな勉強でもその内容をきちんと理解させ、テストでよい点をとらせる。

 

今回はもっとも重要だと思われる「授業が専門家することへの対応」のみを取りあげました。後の三つ、「自分を見つめる作業を促す」・「向社会的欲求を充実させる」・「将来目標をもてるように促す」も大切ですが、紙面の都合上割愛させていただきます。

なお次回は青年期中期(高校時代)の教育について、櫻井先生のお考えを紹介致します。       

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2014年4月23日 (水)

「自ら学ぶ意欲の心理学」  櫻井茂男著 その8

 前回は、自ら学ぶ意欲を高める効果的な教育における乳幼児期について櫻井先生の意見を紹介致しました。今回は児童期(小学校時代)の教育について皆様と共に考えていきたいと思います。なお、今回はぼう大な量になりますので、勝手ながら私の方で特に大切だと思われるところを抽出してご紹介させていただきます。
◎児童期の教育
(1)人的環境を整える
 乳幼児期においては、教育の役割は圧倒的に親でしたが、小学校時代に入りますと、徐々に教師の役割が大きくなってきます。
小学校に入学したばかりの子供にとって大切なことは、まず安心して学べる人的環境を整えることです。それには教師が子供の話をよく聞き温かく接することによって、教師自身が子どもに信頼される存在になる必要があります。小学1年生には、ある程度熟達した教師が当たるのは当然といえます。
 さらに、クラスメートとの良好な関係が築ければ、小学校での教育はスムーズに進むであろうと先生は述べられています。
このことは何よりも小学生に限ったことではありません。今まで見てきたように、中学生にとってもベースとなる環境であり、安心して学ぶための必須の条件です。
(2)子供の自律性を支援する。
 子供の自律性を支援することは、知的好奇心、有能さへの欲求、向社会的欲求のすべてを充足させるように作用するとても重要な教育のテーマです。それでは具体的に子供とどのように向きあえばよいのでしょう。先生は次のように述べられています。
「自律性支援の中心的な取り組みとは、子供の自己決定や自己選択を尊重し、決定・選択された課題が成功裏に終わるように(達成できるように)、ある程度のお膳立てをしてあげることである。」
ある研究では、学年の初めに、新しい教師が自律性支援であると、子供の自ら学ぶ意欲は高く、それがほぼ一年間変わらずに続いたことが報告されています。このことは私達塾の現場でもしばしば実感されているところです。強制的に何かをやらせることは、つまり、生徒自身が納得していないことを無理にやらせようとしますと、目に見えて意欲がしぼんでしまいます。そうかといって、何をやるかについて子供の意志に任す訳にもいかず難しいところですが、今やろうとしていることが何のために必要なのか、そこのところを子供が納得できるようによく説明してあげることが肝要かと思います。
また、教師が成績向上などの過重な責任を負わされ管理統制されますと、子供のへ教育も支援的でなく統制的になるという実験結果が報告されています。これは容易に想像できることであり、進学校や塾の現場では頻繁に生じていることだと考えられます。成績向上というプレッシャーをいつも両肩に重く感じながら教壇に立っている状態ですので、つい焦燥感に煽られますと命令や強制的な発語となる訳です。教師も一人の弱い人間なのです。でも、そうなればなる程、子供の学習意欲は減退していきますので悪循環となってしまいます。ここはなかなか難しいところですが、私は成績向上そのものを目標としている限りこの悪循環から容易に脱け出せないように感じています。成績向上よりは、学習意欲を育てること、学ぶ姿勢を育てることを目標にする、成績向上はその結果なのだと今は考えるようになりました。農業でいいますと学習意欲を育てることはいわば「土づくり」です。ほかほかとした、いい土ができますと植物は健康体となり豊かな実りをもたらしてくれます。
(3)教師が子供の手本になる
小学校時代も親が手本になることは大事ですが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に教師が手本となることは大切です。
「教師は子供の手本となるような意欲的な教師でいて欲しいと思う。そんな教師は自然と手本にされ、子供は意欲的に学ぶことをまねるであろう」
どのような点で意欲的なのかということが問題ですが、
〈先生の傍にいると妙にやる気になる〉〈今の自分よりもう一段上の自分に引き上げられる気がする〉
こんなことをいわれたら、どんな教師も、教師をやっていてよかったとしみじみ思うことでしょう。
(4)効果的な授業をする
(a)教師が行う授業の留意点として先生は次のことをあげられています。
 ア、「わかる授業」をする。
 イ、「興味・関心を喚起するような授業」をする。
 ウ、「興味・関心を喚起しやすい教授法」を用いる。
 エ、「実生活に関連するような授業あるいは実生活に役立つような授業」をする。
 オ、「しっかりと考えることができる授業」をする。
 カ、「子供がわからないことを自分で調べられるように、図書館やインターネットを利用するための授業」をする。
いずれも省けない大切な内容ですが、これらすべてを塾で実施することは物理的に不可能といえます。やはりほとんどは学校で行うべき内容でしょう。ただ、私なりに感じていることを述べますと、これらの授業を実行していれば身についている筈の「考える力」、特に「抽象的思考力」が身についていない子が中学生の中にも多く見うけられるということです。「抽象的思考力」とは具体的な例の中から、それに共通する法則、本質を見抜く力のことですが、これが身についていないとまったく応用がきかなくなってしまいます。「論理的な思考力」とは別次元の能力なので、専門的すぎてよくわかりませんが、どうも私の実感としましては、得点するための簡略な勉強法、つまり、暗記中心の勉強法が災いしているように思えてなりません。
暗記とは点で定着させることであり、それらの点を関係づけたり、ましてやそれらの関連を貫く法則を見つけることではないからです。やはり、初めに答えありきの演えき的な教授法でなく、具体例から法則を発見していく帰納法的な授業、気づきの授業の必要性をどうしても考えざるをえません。
数学の導入部などでは、塾でもやってはいますが、これからはもっと意識的に取り組む必要がありそうです。またそういう時代だと思います。私見ばかり述べてきましたが、先生はアの「わかる授業」について次のように述べられています。
「わかる授業とは、教師の話を聞いていれば、特段何もしなくてもその内容がわかるような授業、ということではない。むしろ、話をしっかり聞き、よく考えないとわからないような授業である。努力してわかるような授業の方が魅力的でおもしろい。そうでないと、自分の潜在的な能力を引き出すことができず、より有能にはなれない」
既知のことを勉強するのは確認にすぎません。学ぶことはいつも未知の領域に一歩踏み出すことであり、多少の困難はつきものです。しかし、だからこそおもしろいのであり、有能感を感じられるのです。
(b)子供どうしの「学び合い」による授業について先生は次のように言及されています。
「最近は、教師主導の授業だけでなく、子供どうしによる学び合いの授業が推奨されている。これは、自ら学ぶ意欲のもとになる有能さへの欲求と向社会的欲求を充足させる大変望ましい授業である。
友達におしえるということは、よく頭の中が整理できてないとチャランポランになってしまいできません。したがって友達に教えてあげることは、その日に学んだことの理解をより深めることに繋がるといえます。また教わる方も教師よりは気軽に習えるので、安心感がありわかりやすくもなるでしょう。ただ、一つ問題があります。それはつい教えすぎたり、相手の理解の程度を判断せずに簡便な方法に走ったりすることです。そこは教師が気を配って反応を注意深く見ていないといけません。一番いけないのが、友達の答えだけ写して持ってくる場合ですが、教師も忙しいとつい見過ごしてしまいます。こうなりますと、この子供はいつまでたっても理解できずに学力はそこでストップしてしまいます。人数にもよりますが、やはりチームティーチングが望ましいでしょう。しかし、子供どうしの学び合いは見ていてとてもほほえましいものです。クラスの雰囲気も良くなり、自ら学ぶ意欲も高まることが期待されます。
最後に夢や目標(可能なら将来目標)をもたせることについて考えます。
「昔は『よい大学に入り、よい会社に勤めるため』が子供を学習に動機づける決まり文句であった。しかし、今はこのような文句に効力はない。むしろ、子供にばかにされてしまうのが落ちである。」
先生はこのように述べられています。私達の若い頃、ほとんどの学生はこのような動機で頑張ったものです。私もその一人でした。いわば社会の、時代の敷いたレールの上を無自覚に歩んでいった訳ですが、そのつけはしっかり払わされました。それに代わる現代の言葉として、「夢をかなえるため」、「人生の目標をかなえるため」を先生はあげられています。「夢」や「人生の目標」には、しっかりと「個」が注入されており、たとえかなえられなくとも、その代償は小さいと思われます。私はよく「自分の未来を切り拓くため」という表現を使いますが、未だ自分の夢や目標の定まっていない子供達もいる中で、この言葉の方が適切かなと思うからです。
小学生の夢や目標は、その成長とともに変化していきますが、その時々の夢や目標でいいと思います。高学年になるとともに自分の個性も徐々にわかってきて、その夢や目標も、より正確になってきますが、よしんば、そういうものが見つからなくとも(見つかっていない子供は結構多い)、自分の未来は自分で切り拓いていくんだという気概は持って欲しいものです。
最後に(本当に最後です)、夢でも人生目標でもそうですが、より身近な目標を設定しないと、子供は日々頑張れないというおもしろい実験結果を紹介します。
◎対象となった児童に七日間、一日三十分ずつ自習の形で教材を学習してもらいます。(引き算)
彼らは処遇によって次の四群に分けられます。
・近い目標群  一日六ページの問題を解くことを目標に勉強する群
・遠い目標群  七日間で四二ページ(六ページ×七)の問題を解くことを目標に勉強する群
・目標なし群  いっさい目標を設けずに問題を解く群(目標なしの勉強)
・統制群  何ら処遇を設けない、つまり勉強そのものをいっさいさせない群
 これらの四群は、事前テストとして算数の自己効力感(やろうと思えばできる感じ)と学力、処遇の後に算数の学力(事後テスト)と算数の自己効力感(事後テストの前と後)が測定されました。その結果が次のグラフで示されています。
 

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 このグラフを見れば一目瞭然、近い目標を課した群は自己効力感においても実際の学力においても圧倒的な伸びを示しています。
 また、何もしなかった統制群に比べて他の三群は自己効力感においても実際の学力においても著しい効果を見せています。ただし、遠い目標を持たされた群は事後テスト後は、自己効力感においても学力においても目標なし群より低くなっています。このことは私達は現場で何気なく実感していることですが、こうはっきりと結果が出ますと、やはり意識的に見直す必要がありそうです。あまりにも遠い目標は、目標の価値を下げるどころか、ストレスとなり、意欲をそいでしまうということでしょう。
 「小学生(特に高学年)では、人生目標(あるいは高校生くらいまでの中期的な目標)のようないわゆる遠い目標とともに、それを達成するためのより具体的で身近な目標をもつことが、高い有能感と学力を保障するものと示唆される」
この先生の言葉で締めとさせていただきます。

次回は、青年期における教育の影響について皆様とともに考察していきたいと思います。   

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